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あげたりもらったり

 3日間さんざん暴れたインフルエンザの熱がやっと下がった夜、伊藤さんから連絡が来ていた。電子書籍を出版したのでと、そのデータをプレゼントしてくれた。
 おー。私は前ほどはびっくりしない、だんだんパターンが読めてきた。パターンが読めないからびっくりしてパニックするのだ。パターンとは、伊藤さんは何かを書いたら教えてくれるということ。事実そうでなくてもいい、私の中にパターンがあることが大事。
 それはきっと以前私が伊藤さんに寄付したことへのお礼なんだろうと思われる。私はお金を送ったことを忘れているから、なんでこの人はこんなによくしてくれるんだろうと一瞬不思議になってしまうが、あそういうことだった、と思い出すのだった。(脳が因果を納得しようとしているので)
 ありがたいし嬉しい。
 感想のつもりでこのnoteを書き始めて、大いに脱線しました。

 伊藤さんの本の内容は贈与論について。
 伊藤さんがプロ奢られヤーさんにお寿司を奢った時のエピソードのところで、赤の他人に寿司を奢るという特殊な状況に、因果を求めて脳がバグって、目の前の奢った相手のことが好きだからだと脳が判断を下すのだ、と書かれていた。
 そっか、その作用で私も好きかもって思ったんだなと。私の贈与の効果は日記を通して観察されていて、伊藤さんの仮説を裏付ける結果を呈していたというわけか。たまたま贈与してきた人がたまたまネットに心スッポンポン日記を書いていた稀有な事例。私というNが増えてしめしめでしたね。
 この答え。どうしてかわからなくて、考えるのを諦めた。こんなに答えが出ないことってなんだ。エウレカセブンの最初の方のレントンの「ねえさん…」のごとく虚空に呼びかけた。無意識が避けたい話題だ。幼い頃のトラウマだ。フロイトだユングだ精神分析だ。私1人ではわからない。迷宮入りだ。疲れたもういいやとほったらかした。なんで答えを見つけられるのだろうかね。
 違和感に答えが出ないことがあるのに心を晒し続けているのが無防備で苦しくて、何か言えば言うほど変になってしまう。
 もう、なんでもいいではないかということにした。

 それからはなんでもいいことになった。
 なんでもいいと思って流したこと。例えば、小さいこと。
 同僚のメールに私がCCで入っていて、その中で「最後になりますが今までありがとうございました」を「最期になりますが」と書いていたのを、まぁいいや、意味はわかるしと何も言わなかったら、その後も「最期に」のメールを2通くらい出していた。1回目の気になった時に言っとけばよかった。けれど、2回目の時も3回目の時も特に言おうとしてない。
 間違いは正さなきゃと思っていたもの、正さなかったら?どうなる?
 結果、どうもならない。
 どうもならない。どうもならない。びっくり仰天、どうもならない。
 ただ、このことは私の記憶の中だけにあるんだなと、ひとつ、玉入れのカゴに、ぽとっと玉が入るのだった。
 会議で、私は協力しませんと言って顰蹙買ったり、社会人として云々言われたり、言っても響かない私にどう接したらいいのか悩んでることが人づてに聞こえてきたり。迷惑な人ですね。
 どうでもいいやとほったらかして、深く考えない。考えたことを書いても書かなくてもなんでもいい、職場の人も私のことを理解してもらわなくていい、仕事を楽しくする工夫とか、周りに相談とか、特にしなくていいや。
 そしたらどうなる?
 なんだか部屋がどんどんカオスになっていく。頭の中が部屋に顕著に現れる。人生に手を抜いているという意識がどこかにあって締まりがない。ええい、うるさい頭の中め、部屋なんて動線と座る定位置の場所と寝る場所に不便なければいいのだ。皿にカビが生えるのは常だと同居人に話したら、引かれた。
 だんだん何のために同僚と摩擦を起こしているのだろうか、一体何と戦っているのだろうと不思議になってきた。どうでもいいの実験のためだというこの実験の実りってなんだろう、実験でもない、ただの無気力からくる怠惰で引き起こしたことを言い訳しているだけだ、カッコわるい。
 12月に入ってからちょっと見直して、部屋を片付けたり同僚とのコミュニケーションを気をつけた。すると体が軽い。気分がスッキリ。部屋もキレイ。やっぱりなんでもいいわけにいかない。なんでもいいのだけれど、よりよい、がある。あたりまえ、あたりまえ、あたりまえ体操〜

 目の前にいる人に話しかけるように、ぽつりぽつり心を明けて。
 書けるかな、書けそうだな、書けた。言葉にすることでスッキリまとまる、思ってもいなかった気持ちが発見される、内臓にサーチライトを当てて、どういうつもりだぁ〜?どんな感じかぁ〜?どっちを向いている〜?をやる。急に照らされた内臓がおずおずと喋り始める。
 どうしたら自信が出るかじゃなくて、どうしたら勇気が出るかじゃなくて、どうしたら元気が出るかだけを考えていればいいやと、よく寝て、普通にご飯を食べて、成り行きを待つ。元気がある時はあるし、ない時はない。ないときも特に無理やり奮い立たせることもなく、ただ在るように在る。それでいいのかと内なる自分に問われたところで、それ以外にできることなし。毎日人の輪の中にいても、疲れる、落ち着かない。インターネットは平気で嘘をつく。こんな虚無、インフルエンザで苦しんでいた方がましだ。
 ちょうどいいのは1ヶ月先くらいのゴールとそれに向かう緊張感。少し高いハードルが虚無を打ち消す。そのためのハードルだ。次は何を作ろうか。
 
 インフルエンザ隔離休暇が終わるので、私の休んでいた分の仕事を肩代わりしてくれた同僚へお礼のお菓子を買いに行かねば。インフルエンザにかかるのはしょうがないし、熱が下がっても感染を広げないために休まなければならないのは理解されてることだし、お菓子を配る必要はないのだが、職場で息をするために必要。休み明けにお菓子がないと肩身が狭く感じる。それが気持ち悪いからお菓子で解決する。感謝の気持ちというより、居心地の悪さをなくすためだ。
 同僚たちはみんな、1週間も休めば必ずお菓子を配るから。休んでなくても何故か配ってるから。もらった分は返さねばと思ってしまうから。

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