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手抜きには技術がいる
昨日の私と今日の私の繋がりはない。引き継ぎは行われない。ただ、目が覚めると狭い部屋に足の踏み場もなくものが散らかっている光景があって、またここにいるのかぁと感じるから、昨日の私と今日の私は同じ私なのだろうと思える。急にスペインのマドリードのマンマの家で目覚めたらどう思うのだろう。流石にパニックになるか。違う場所で目覚めたい。一瞬、ここはどこ?ってなる感覚になりたい。
すれ違うおじさんになぜか文句言われる。最近頻度が高くなっているんじゃないか。文句を言いやすい見た目になっているのかなと気になっている。
ほらね↑、ろくな言葉が出てこないでしょう。こんなことなら書かないほうがいいのに。何か出てくるのじゃないかと期待しているけれど、言葉に責任を負わせすぎなのではないか。言葉に対して地縛霊のように縋っている。
私は怠惰だとまとめてしまうと、本当を見失う。手相に縋る。占いに縋る。今の私はどう歩けばいいのか、どう笑えばいいのか途方に暮れているくらいに散り散りになっておかしいのだ。
必要なのはアドバイスをくれる道先案内人ではなくて、自分を癒す時間なのだ、とか言ってみる。なんでも言ってみる。インターネットのないところで、承認欲求の発生しないところで1ヶ月暮らすとかするべし。こういった現実に出来なさそうなことでも(仕事を辞める勇気がないから)まとまらなくていいからなんでも言ってみよう。言葉はなんでも言えるし、言葉が体にフィットする感覚をつかまえるためになんでも言ってみよう。
地縛霊のように何かに、誰かに縋りそうになる自分があって、それを押し留めて表面上は平気なふりをしないといけないのが辛い。人に不快な思いをさせてしまうわけにはいかないという強迫観念。がまん、がまん。そう思うのは私自身が、この人地縛霊みたいだなと、他人のことをそう思ってきたからに他ならない。地縛霊みたいな人は来ないでほしい、と思ったから。自分に返ってきている。
年収が倍になればいいな、美人になっておじさんに舐められないようになりたいな、とか能力を付加する系を夢みがちだ。しかし真に私を癒すのは地縛霊寄って来ないで、とか、年寄りは新しいものが苦手だから歳をとりたくないものだとか、呪いをかける世界の見方をなくす?なくすことを意識するともっと強く掴んでしまう気がするから、どうやるのかってのはあるけど、付加するのではなく、呪いをかけないということが私に必要だと思う。それがいくぶんしっくりきているような気がする。付加する系もあってもいいのだけど、それに向かって努力したくないわけだし。
YouTubeの大喜利にハマっているけれど、今の私にそれは毒になってしまうのかもしれない。完成されたものに圧倒されたい、感心したい、すごい人を見たい、それが毒になっている。完全にいいものしか見ていないと、未熟なものが目に入らなくなる。見るに値するものではなくなる。
完璧ではないものの中に美を見ることが私の癒しになるのだと思う。「未熟なもの」と言ってしまうことが、また線引きしているということになってしまうけれど。
どういうものを未熟と捉えているかとか、嫌なやつになる覚悟で言うと、昨日ラテンダンス教室の発表会に呼ばれて見に行ったときの、あちゃーという感情。主に人生の先輩の方々が、お金かけてステージに立って、衣装も新調して揃えて、どう頑張ってもプロのようにはいかない仕上がりを見た時の、正直な感想。もちろん私が演っても不揃いでキレがないものになるとわかっているし、人のことを言える立場ではないけれど。
私には場違いすぎたあの所で、一生懸命いろんな見方をしようとした。高齢なのにあんなに踊れるのはすごいことだ、とか、演ってる本人の顔はイキイキしていて楽しそうだし、楽しそうな人を見ていることはこちらも楽しい、とか、良い方の見方だってある。良い方の見方の、良いを噛み砕くと、演目を見て楽しめていることが私がそこに居る意味があるということで、楽しめる部分という意味だ。居る意味があると思いたくて意味を探した。思ったこと全部拾えば、何かしらある。言葉にすることはできる。言葉はなんでもありなのだから。でもそれは苦し紛れに捻り出した言い訳で、体にフィットしなくて上滑りする。
あれが未熟なものというよりは、もっと分解した方がよくて。未熟と言うよりは熟していたわけだし。私があの場での上滑りしないもっと意味を感じ取れたら違ったのだと思う。未熟なのは私。私は変数だけれどすぐには変わらないので、どうするかというところで。
自分に呪いをかけないためにネガティブなものを避けるのは難しい。楽しくなかったら退場する、が正解なのかもしれないけれど、それがなかなか難しいのだから。行ってみないと楽しいか楽しくないか分からないから行ってみるしかないし。楽しくない場所にいると楽しくない部分が言語化されて、それが自分に返ってきた時に呪いをかけることになる。
昨日あったこの出来事は些細なことだし、すぐ忘れてしまうのだろう。しかし出来事を忘れたとしても、私が高齢になってラテンダンスを習うとなった時に、なぜだか分からないけれど抵抗を覚えるのではなかろうか。演ってる側はとても楽しいことなのに。
良い見方できる時と、批判的見方が強く出る時がある。となると今は活動を広げない方がいいというのがまとめ。内心批判ばっかりしているくせに、ヘラヘラしているやなやつになっている。
内面は外側には見えないから、いくらでも隠せるのだけど、抑圧になっているから、抜け出せなくなる。抑圧になっていることも気づかないし、勝手に1人相撲して、愚かしい。
日記をインターネットに公開し始めた時期、毎日楽しくて、広がりに満ちた時間だった。なんでもやってみて、なんでも受け入れて、世界は広い、繋がっている、繋がりがよくわかる、そんな時間だった。言葉が世界に触れる道具として、新しい使い方を発見した気持ちで、言葉にすることに夢中だった。それがいつの間にか繋がりがなくなってて、焦って繋ぎ止めようとして、疲れた。1年経った。
素晴らしいものを見たいのはそう、いやなものを避けたいのはそう、真剣に言語化、できたかしら。原点回帰、なったかしら。まとまらないけれど、近づいたかしら。
やっぱり、なんでもいいわけがない。手を抜かず選びましょう。