肚に落ちたら、心が洗われる
最近、徐々に明確化してきた概念がある。
それは物事の理解の仕組み。
2種類の物事の理解。
言葉で表現するのは難しいのだが、馴染みのある言葉を当てはめてみると、
「頭で理解する」
「肚に落ちる(腑に落ちる)」
の二つ。
頭で理解するはわかりやすい。
例えば、学校の勉強。
年号を覚えたり、公式を覚えたり、いわゆる知識の習得だ。
テストの結果などで定量的に評価できるので、客観的に伝わる。
一方、肚に落ちるは非常にわかりづらい。
本人がそうと思えば、そう。
ただ、外の人は判断しづらい。
だが、しかし。
目をみればわかる。
肚に落ちた人は、目がキラキラするのだ。
先月の出来事。
広島で行われた占星術師Lica Uchidaさんのお話会。
地の時代から風の時代へ。
地の時代の豊かさを受け取り、
どのように生きていくか?
どうあるべきか?
どう覚悟を決めていくべきか?
Licaさんを通して、表現された言葉という音霊と、その空間に集まった魂が折り重なり、それぞれが自由に思いを馳せていた。
お話会が終わり、お茶をしながらのシェア会の席。
とある初老の女性がこんな言葉を語ってくれた。
「私、こういう場に参加するの初めてなんです。初めて出会うような人だったり、聞いた話ばっかりだったし。でも、今、心が喜んでいるんです!」
涙ながらに語る彼女は、若い頃嫁ぎ先で姑との関係に非常に悩み、まさに針のむしろのような生活を送ってきたそうだ。
しかし、その姑も年齢とともに認知症が進み、今は介護施設に入っている。
恐れ、憎んできた姑。
今はか弱く愛おしくってたまらないそうだ。
「これからの時代はありのままでいい」
というメッセージ。
辛い体験も必要なことだった…
彼女の肚に落ちたことだろう。そして心が洗われたことだろう。
キラキラと輝く大粒の涙がそれを物語っていた。
そして、その涙に私自身も癒されたのだ。
肚の中には子宮という大きな泉が広がっている。
そこには、日々一粒の雫が垂れている。
その雫は毎日少しづつかもしれない。
時には大雨が降るかもしれない。
しかし、着実に泉には水が注がれているのだ。
そして、ある日。
突然その泉には蓮の花が咲く。
蓮の花はその美しさゆえに、心を浄化させる。
外からその様子をうかがい知ることはできない。
他人はおろか、本人にもわからないのだ。
しかし、一つだけわかる部分がある。
外界と接触する眼という心の鏡に光が戻るのだ。
キラキラとした涙とともに。
肚に落ちるは意識の覚醒。
目覚め。
まさに天の岩戸開き。
開かれた扉から入ってくる風景は、
今までと全く違った世界だ。
肚に落ち、心が洗われる。
そんな「洗心」を続けていきたい。
2020年は清い心を持った様々な方々との出会いの一年だった。
大切な出会いのおかげで、心が洗われる体験をしてきたし、その体験により肚に落ちた。
身近な人々の洗心をサポートしていくこと。
僕にはできるし、すでにやってきた。
人の洗心が自分の洗心なんだから。
それが、一番気持ちいいこと。ワクワクすることだから。
「あんでぃの洗心セッション」
そんな名前で始めてみようか?
もちろん、金額も設定する。
お金をもらわずに提供したい、そういう思いもあった。
しかし、お金のエネルギーの交換は、自分らしくあるために必要なことだと肚に落ちたんだ。
徐々に自分のワクワクが明確化してきた。
そう、ワクワク研究家として、ワクワクを体現し続ける。
それが僕の使命でもあり、お役目なんだ。