
【たたら旅③】出雲そばのルーツを探りに山を登る
島根県に旅行のグルメ人気ナンバーワンとはなんだろうか?
のどぐろ?
しじみ?
松葉蟹?
いやいや、出雲そばだ!(あんでぃ個人的リサーチの結果w)
出雲そばとは、日本三代そばの一つ。
甘皮と呼ばれる部分まで一緒に挽いて蕎麦を打つので、黒味があって食感があるそば。
3段になった赤い円形の器にそばが持ってあるという不思議な食べ方をするそば。(割子そばという)
とにかく他にはない独特で唯一無二のそばは、不思議な風習や文化の多い出雲文化を象徴するような食文化でもある。
そんな出雲そばが盛んになったのが、たたら製鉄がきっかけであったということはあまり知られていない。。。
「出雲文化の一つ、たたら製鉄という文化をふかぼってみよう!」
と、たたらツアーを敢行した私たち界 玉造一行。
日本刀を握り、製鉄の神様にご挨拶した後に向かったのは、くねくねとした山道を登った先に現れた「福頼の棚田」

奥出雲エリアには棚田が数多く存在する。
その理由は、たたら製鉄の原料である砂鉄を採取するために行った鉄穴流し(かんなながし)がきっかけだ。
鉄穴流しとは、砂鉄を多く含んでいた奥出雲の山々を切り崩し、川から土砂を流し、比重の重い砂鉄を川底に溜めて採取する手法。
流れた土砂は下流へと流れ、芳醇な出雲平野を作った。
それだけでなく、宍道湖(松江市)にも流れることでしじみの生育に十分な川底環境を作り出した。
いまや宍道湖はしじみの漁獲量日本一となっている。
「山を切り崩した」と簡単にいってしまったが、それは相当な作業であったろう。
一つの山を削り、土砂を流すのにどれだけの人出がいたのだろうか?
鉄をとるため、とはいえ、自然を壊していくことにどんな思いを抱いていたか?
自然環境を変えていったその土地に新しい息吹を吹き込む。
そんな思いから、この棚田は生まれたのではないだろうか?
時は江戸時代。
削られた山肌には畑が作られ出雲そばが生まれた。
信州から出雲松江藩にやってきた松平直正公がそば職人をたくさん連れてきて、棚田で作られたそばから出雲そばという新たな文化を熟成させた。
そばで土壌が回復した畑はやがて田んぼとなり、米が作られた。
「東の魚沼、西の仁多米」
と称されるこの地のブランド米・仁多米はこのような歴史の産物。
製鉄の歴史が、今の島根の食文化を生み出してきたといっても過言ではないだろう。

鉄穴流しが行われた水路は今も残っている。
山から流れ出る水の勢いはとても強く、この水流が豊富な出雲の食文化を生んだと思うとただの水路には見えなくなってくる。
延々と広がる青空と、棚田の光景を目に焼き付けているとお腹が空いてきた。
一行はこの棚田でできた出雲そばを堪能しにいくことに。
伺ったのは稲田神社。

そばなのに神社?
不思議に思われるかもしれないが、この神社の境内内、元社務所が蕎麦屋「ゆかり庵」なのだ。
奥出雲町産の蕎麦粉を使い、石臼挽き手打ちでつなぎなしの十割蕎麦を提供するこだわりの蕎麦屋さん。

もちろん三段割子そばを食す。
季節の山菜や大きなおむすび、店主が育てたブルーベリーのゼリーで奥出雲の大地を舌で満喫した。

庭からは、この土地で生まれたと言われる稲田姫(クシナダヒメ)と素戔嗚尊(スサノオノミコト)がこちらを見守っている。
彼らが織りなす八岐大蛇(ヤマタノオロチ)伝説では、退治した大蛇の尻尾から三種の神器の一つ、草薙剣(クサナギノツルギ)を見つけ出す。
大蛇は土砂を流す川であり、剣はたたら製鉄の玉鋼である。
といった説がある。
だが、こんな説も面白いかもしれない。
八つの頭の大蛇はそばであり、素戔嗚尊はそばをカットする職人だった。
もちろん時代は前後してしまっている。
しかし、庭から笑顔を振りまくふくよかな稲田姫を眺めていると、あながち間違いでもないように思えてくるのだ。(続く)
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古の湯と出雲文化を遊ぶ宿「界 玉造」