わたしは大森靖子を聴けない。
「大森靖子」の四文字は一つの世界だ。
私は大森靖子さんにすごく詳しいわけではないけれど、彼女は多くの人にとっての神様で、数えきれないほどの孤独や命を救ってきたのだと思う。
「大森靖子が好き」と口にするのは、単にその人の趣味嗜好を告白する以上のものを物語っている。
彼女は尖っている。細く、鋭く、歪に、尖っていて、やわらかくて、脆くて、絶望と憧れを手放せないでいるかわいらしい人たちに、深く深く刺さる。
私はいつもそれが少しうらやましかった。
大森靖子の世界が刺さって抜けないほどの、かわいいひとになりたかった。
彼女のかわいくて繊細で、沢山のばらばらな糸を丸めてきらきらの粉を振りかけてだいすきなひとに投げつけた芸術のかたまりみたいな、とても片耳イヤホンじゃ聴けないような、そんな世界観が刺さる人になりたかった。
私だって、「たまたま良いと思った曲が大森靖子プロデュースだった」みたいなことは何度もある。
彼女の創り出すものは本当に素晴らしいと思う。それはわかる。
だけど、だからこそ、「大森靖子が好き」と堂々と言えない、ファンだと言えるほどには彼女の世界と共鳴できない自分自身に悔しくなる、というだけの話である。
たぶん(これは本当にたぶんだけれど)、彼女の書く歌詞はひとりぼっちだったはずの感情を掬い上げてくれるもので、だからこそ彼女は、確かに誰かを救える芸術なのだと思う。
そして、彼女の歌詞に共感できるようなひとたちはすごくやわらかい感性を持っていて、それは固くてつめたい地球のうえでは「生きづらさ」なんて姿になる。
そんな、この星じゃ生きづらいほどに、やわらかくてぐちゃぐちゃでかわいいひとたちを、私は心底羨んでしまうのである。
きっと、大森靖子を聴けない私の方が、この星じゃ平気なふりをして生きられる。
みんながおかしくてわたしこそが正しいのだと、そう囁いてくれる彼女の音楽を前にしたら、私は「おかしいみんな」の方なんだと突き付けられてしまって、でもそれを思いきり不幸と呼べないから悔しくて、
だから私は、大森靖子を聴けない。