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東京五輪 賛成派と反対派の意見を分かり易く書いてみた

東京五輪には賛成・反対の意見があるが、多くは論拠が示されない。
私なりに、論理的に書いてみたので、是非お読みください。


政府の回答

政府及びその関係者はこれまで、何のためにやるかを「絆」「希望」等の言葉で説明はしてきたようである。

政府は一応、説明をしたものの、一部の国民の理解を得ることはできていないようだ。


賛成派の意見

賛成の立場から、はっきり意見を述べている小倉智昭(おぐら ともあき)さん。
感情論や意味不明な説明が多い中、小倉さんの意見は明確だ。このように明確な説明をしていただける御仁には敬意を表する。

小倉氏は「日本って国を代表するスポーツって大好きなのよ。日の丸つけてニッポンっていう風に出るとみんな応援するでしょ。オリンピックに日の丸つけて行くとメダルを期待するじゃないですか」と指摘し「それだったら祖国を代表する選手たちに優先的にワクチンを打ってあげて、どこがいけないんだって、僕はそういう風に思います」と私見を述べた。
 一部では“不公平”などの意見もあり、アスリートからも戸惑いの声が出ているが「平等とか不平等ということではなくて、その人たちのおかげで僕たちはどれだけスポーツに目を向けてこられたのか?っていうことを考えたら、全然問題じゃないと思いますけどね」ときっぱり。

「大好き」、「みんな応援する」、「メダルを期待する」、「祖国を代表」、「平等とか不平等ということではなくて、その人たちのおかげで僕たちはどれだけスポーツに目を向けてこられたのか」

小倉さんの意見は、おそらく賛成派の多くの人の意見だろう(推測)。

小倉さんの思想を「私なりに解釈」すると次のように展開される。

私なりの賛成派の意見の解釈

アスリートは崇高なスポーツを行うことで、国民は高らかな感動を与えられるのであるから、アスリートに活躍して頂くための様々な便宜を図るのは当然である。
アスリートと一般国民との差は、崇高さを与える側と、与えられる側という、立場の違いである。
与える側には、その原資となる公的資源が必要である。ある種の公的資源が優先して割り当てられるのは当たり前である。
差が生じるのは当たり前であり、その差は、平等・不平等という人権上の問題ではなく、社会的立ち位置によるものである。それは、医療従事者が優遇されているのと、同じ考え方である。


反対派の意見

反対派にもいろんな説明があるが、本記事では、私の意見を書かせて頂きます。

医療従事者は、医療という現実解を与えることができるのであるから、優先順位が高いことは納得できる。合理性がある。

アスリートは、元気や感動を与えるのである。
これは主観であって、この感情は、学校教育や、業者の広告・宣伝による盛り上げ(扇動)の結果でもある。(ここが反対派の基本軸)

アスリートが築く競技記録は崇高である、という思い込み(刷り込み)思想が賛成派の基底にある。これは思想であり、感情であるため、物事を論理的に考えようとする人たちが納得できないのは当たり前である。

上述の論理の展開の結果として、反対派からは、次の思いが派生し、中には感情論も出たりするだろう。

・何の祭典なのか意味不明だ。何が、めでたいのか?
・アスリートは、そんなに偉いのか疑問を感じる。むしろ、自己の能力に陶酔した、何も考えていない人達ではないか?
・何も考えていないと思われる人たちが、日本国家を代表する人達であることは恥ずかしい。肉体だけでなく、知力(説明能力)も優れた人であって欲しい。
・観戦者は多様であるため、元気や感動を得られない場合があるだろうし、仮に得たとしても、実生活とは無縁だ。
・競技記録は、社会的格差の結果により生じた記録だ
・価値を感じないことを、ありがたく感じさせるプロパガンダには苦痛を感じるし、そのような事業に公共の資源を使うべきではない


小倉さんが抱いた疑問
「祖国を代表する選手たちに優先的にワクチンを打ってあげて、どこがいけないんだ?」

これに対する、反対派(私)からの回答は、次のとおり。
スポーツには、価値が無いから


この回答は、賛成派には受け入れがたく、苦痛であろう。

だが、反対派にも、逆の立場として、同様の思いがあるのだ。

「スポーツには価値が無い」とする意見は、世に出回っていない。
反対論が世に出回っていない理由は、これを流布するスポンサー(カネ)がないためだ。反対論にはカネ儲けの仕掛けが何も無い。

パナソニックなど多くのスポンサー企業は、広告・宣伝によって、スポーツを愛好するようカネをバラまいて活動している。
スポーツを愛好する人達は御し易い(ぎょしやすい)からだ。広告・宣伝を、そのまんま飲み込んでくれる。

昔は、競技の後で、対戦相手のファンがケンカをした時代があった。なので、競技会場からの帰路の導線は応援集団毎に分けられていた。
そこまで、当事者は、周囲の雰囲気に飲まれ、乗ってしまうのだ。
当事者は、乗せられていること自体に気が付かない場合がある。
当事者は、上手に、乗せる・乗せられることを期待し望んでいる。

冷静に考えれば、競技など、どうでも良いことだ。

東京五輪は公共の事業であり税金が投入されている。
一部の人達が元気や感動を受け取りたいために、公共の資源を消費することはやめて頂きたい。

と、言ったところで、賛成論者には、反対派の話を聞く気が無いことは、もはやわかっている。


政府の立場

アスリートを上級国民とする身分制社会を連想させる考え方を、政府が公言することは、立場上できない。
「絆」「希望」等の、意味不明な言葉を放つ方が、まだマシなのだ。

今後も、政府は、意味不明な言葉を用いて説明してくるだろう。国民が、その説明を理解しようが、しまいが、どっちでも良いのだ。

地方にも問題はある。地方には反対論者がいないため、愚かしさが、より一層先鋭化する。
聖火リレーは、賛成論者からすれば誇らしいのだろうが、反対論者からすれば愚かしい行為として映ることを知っておいた方が良い。


英雄崇拝論

政府の背景には、小倉智昭さんのような意見の人達がたくさんいると思う(推測)。アスリートは、小倉さんの期待に応えるべく、努力をする。そして、努力をするアスリートを支える人達がいる。

この人たちは、英雄崇拝論者だ。
英雄に対して、平等とか不平等ということはないのだ。

反対論者から見れば、その状況こそ差別・不平等なのだが、賛成論者からみれば英雄様が優先されるのは(水や空気のように)当たり前過ぎるので差別など存在せず、むしろ優遇される雰囲気が当然なのだ。

アスリート崇拝論を、アスリート様自身が言い出すのは、さすがに、いくらなんでも、恥ずかしい。

なので、アスリート様自身は意見を言わない。
立場の上の者に判断を任せる。
上の者とは、アスリートを厚遇する人達だ。
結果的に、アスリート様は、なにも考えなくても、何も言わなくても、崇拝・優遇されるようになっている。

論理ではなく、カリスマや盛り上げに惹かれる人達は多い。この人達をどう処遇するかが課題だ。

言葉巧みなのは次の記事だ。日本の一流企業とされるパナソニックが次のように言う。

「スポーツは私たちに非日常的な感動や一体感をもたらしてくれます。」

美辞麗句を並べ、格言っぽい言い回しで正当であるかのように振る舞い、感動の世界へ導くのだ。

スポーツを美化する。映像化する。音楽を流す。涙させる。感動したかのような雰囲気を作り出す。自尊心をくすぐる。
言葉巧みに忍び寄られ、踊らされるのです。踊っている人達も、それはそれで満足なのです。

「金のために五輪をやるのじゃ」という金権の立場は、他の者から総攻撃を浴びる。

金権が実態なのだが、それをごまかして、何か、もっともらしいことをしゃべっている場合がある。
金権であることを直接的に言ってしまえば、批判を浴びることぐらいは、金権論者自身知っている。


コロナ禍中止論への評価

コロナ禍で危険なので五輪中止だ、という論法がある。

政府は安全安心だと言い切るスタンスだ。
なので、「コロナ禍中止論」には効力は無い。

国民の側が、何か意見を言ったとしても、政府は無視するだけだ。

このことは、既に、聖火リレーで具現化している。


最後に

政府の立場としては、開催するという結論アリきなので、その説明は言葉遊びなのだ。
政府としては権力を粛々と行使するということだ。
政府は、何かメッセージらしき言葉を発するが、基本スタンスは、ダンマリなのだ。

政府の背景にいる賛成論者は、反対論者の意見を聴く気など全く無い。
賛成論者とって、(反対論者が言うところの)差別・不平等などというものは、この世に存在しないのだ。神様と信者との関係が、差別・被差別の関係では無いのと同じだ。

東京五輪スポンサー企業のパナソニックのページには、多くの「すき」が付いている。大多数の人々は、論理よりも感情を好むのだろう。

パナソニックのページには、政府よりも、より明確に、「スポーツ最高!」思想が書かれている。
反対派の批判の矢面に立っているのは政府ではあるが、スポンサー企業のパナソニックの方が思想性を高め、人心の煽りを行っている。

大手メディアに期待してはいけない。
丁度良い機会だ。自分で考えようではないか。


次の記事は、他の五輪推進論者への意見を書いた記事です。こちらも、お読みください。


以上

#東京五輪 #東京オリンピック #東京オリンピック中止 #パナソニック #小倉智昭