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文学部不要論
人文学は人権・平和・民主主義などを理念としています。
しかし、例えば、国文学者は過去の差別社会における文献を崇高だと考えています。
人文学の理念はすばらしいですが、現実の大学の文学部は理念とは真逆なのです。
1.問題提起
(1)文部科学省
文部科学省は問題を提起しました。
これまでの人文社会科学系の教育研究については、専門分野が過度に細分化されているのではないか(たこつぼ化)、学生に社会を生き抜く力を身につけさせる教育が不十分(学修時間の短さ、リベラルアーツ教育が不十分)なのではないか、養成する人材像の明確化や、それとの関連性を踏まえた教育課程に基づいた人材育成が行われていないのではないか、という指摘が社会一般や学術界からもしばしばされており(中略)教育の面から改善の余地が大きい
文部科学省は、研究領域への批判という形ではなく、教育のあり方という観点から批判をしています。
そういう意味で「文学部不要論」という外形にはなっておらず、「文学部教育改善余地大きい論」です。教育のあり方を見直せば、文学部は「いいね!」になるということです。
教育の観点から説き起こしていますが、その結果として研究領域が改変される可能性はあるかもしれません。
(2)内閣府
文学部を含めて、学問のあり方が問われたのが日本学術会議任命拒否問題(2020年。所管は内閣府)です。
2.東京大学
学術会議問題を契機にしたと推測しますが、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部は学問のあり方を論じています。
このサイトには、これこそが人文学だ!という論文がいくつか掲載されています。
学術会議の中・外を問わず、学術的根拠に基づき政権を批判する意見を述べることがあるとしたら、それは反社会的なのではなく多様な視点と選択肢を社会にもたらす行為であること、それは政権がどの政党によるものであろうと、首相が誰であろうと首尾一貫しているということを具体的に説明し、社会に広く理解を求めることが不可欠であろう。
政治的な意味が醸成されるのは、じつは投票や特定政党の支持といった行為だけではなく、政治という具体的な活動を取る以前の「前‐政治的領域」であるという。その起点となるのは、(中略)日常生活における様々な営みそのものである。
批判してくれる相手と向き合ってきちんと言葉で話し合う対話こそ、私たちが自分を変え、社会を変えていく最大の力である(拙著『対話の技法』笠間書院)。その健全な批判の力を培ってくれる訓練と手段が「学問」なのである。
為政者による理由の説明の拒否を市民が許すことは、自由と主権をみずから手放すことに直結すると言えるだろう。逆に、私たちが専制的な社会を望まないのであれば、常に為政者に対して応答の責任を問わなければならない。(中略)為政者から説明が与えられないことに慣れてはいけない。
人文学は、課題解決のための技術や制度に直接かかわる知を生むわけではないのはその通りだ。しかし、技術や制度の実装は、幸福、責任、公平、正義など、人と社会に関わる根源的な価値・概念への真摯な問いに根差したものになるべきである。
上記の引用は、私が魅力を感じた記事です。
これらは、人文学の理念や学徒の心構えを説いています。
人文学とは、自然や社会の実態の学問ではなく、理念・心構えの学問だと言えます。
理念だけを述べても社会的には意味をなしません。
なんらかの社会的な文脈の中で人文学の理念が織り込まれることが必要なのです。
この理念を社会的に実装するのは憲法や法律などですから、人文学は法学に吸収されてもよいのではないかとも考えられます。
少なくとも、人文学は他の学問へ影響を及ぼす必要があります。
そういう意味から、人文学は人文学徒自身による評価(自画自賛)ではなく、他の学問領域の学徒からの評価が必要です。
他の学問領域への批判は、専門的な知見は必要ではなく、中学・高校生レベルの純朴な問で十分です。例えば、「学校教育で古文漢文を学習する意義は何ですか」ということです。
この問に対して合理的な対話をし、納得できる回答があれば、その学問領域を認証する、ということにすれば良いのです。
学術会議任命拒否問題は、まさに他の領域の者からの意見であるため、これと丁寧な対話をする必要があるのです。
しかしながら、内閣府側は公共機関であるにも関わらず説明責任を放棄しているのです。
これでは民主主義国家であるとは言えません。我々日本人は不当な政権に支配されているのです。
他方で、残念ことに、共感できない記事もあります。趣味娯楽として学問を論じているのです。
●vol.3 レオ・シュトラウス「迫害と著述の技法」考 大宮勘一郎(ドイツ語ドイツ文学研究室)
●vol.10 私の空車(むなぐるま) 池田嘉郎(西洋史学研究室)
これらの記事では人文学を趣味娯楽として論じている、というのが私の感想です。
他者に知的触発を起こさせない人文学には価値はありません。
他者の側が聞く耳を持たない、という問題があるのかもしれませんが、人文学者側も表現を工夫するなどの努力は必要です。
学問の基本は対象を知ることですが、知ったうえでどのように人文学的に評価するのかも重要です。東京大学にはイスラム学やインド哲学仏教学などの専修課程がありますが、知識の羅列のように感じ、人文学的評価を実施していないのではないかと感じます。
3.京都大学
京都大学は人文学系のコンテンツ「 #立ち止まって考える 」を設けました。無料で講義を受けることができます。
すばらしいコンテンツは次のとおりです。
【公共政策】広井良典先生「人口減少・成熟社会のデザイン」
【社会学】安里和晃先生「グローバルな労働市場と不自由な外国人労働者(2):家事労働と介護」
しかし、残念なコンテンツもあります。
【文化人類学・動作解析】相原進先生「芸能の記録・分析から見えてきたこと-『一期一会』を記録することの意義と可能性」
「(芸能は)失敗することも含め、毎回同じにならないことで無限の創造性に開かれている。ここに芸能を演じる場を維持・継承することの意義がある。」という内容ですが、理解や共感ができません。
このような内容では、文学部は不要である、という感想を持ってしまいます。
4.大阪大学
人間が人間として自由であるためには、直面した問題について考え抜くしかない。その考える手がかりを与えてくれるのが、文学部で学ぶさまざまな学問であったというわけです
この式辞は、それ以上でもなく、それ以下でもない、ということです。
つまり、文学部は崇拝の対象ではなく、手がかりにすぎないのであって、考えるのは自分自身である、ということです。
「それ以下でもなく」とは、「考える手がかり」は与えてくれている、ということです。
「それ以上でもなく」とは、文学部に崇高さを感じるのは誤っていることを示唆しているのです。考えるのは自分なのです。
5.古文漢文不要論
私は、古文漢文は不要であると主張しています。古文漢文は人文学ではないからです。
東京大学の唐沢かおりさんによると、人文学は「幸福、責任、公平、正義など、人と社会に関わる根源的な価値・概念への真摯な問いに根差したもの」という趣旨を述べています。私はこの考えに賛成です。
中世の貴族社会に「責任、公平、正義など」の概念はありません。
古文漢文は人文学ではないのです。
古文漢文を是認する人たちは文学部に籍を置いています。
なので、「そんな文学部なんか、いらなくね?」と思います。
6.体育会系
文学部不要論を展開してきましたが、文学部よりも、もっと不要で有害なものがあります。
それが体育会系です。
体育会系を反面教師にすれば良いのではないでしょうか。
体育会系の特徴は次のとおりです。
(1)目標
ア.勝つこと
イ.記録を超えること
ウ.スポーツ競技力の向上
人文学の目標に比べて、体育会系の目標は趣味娯楽であり幼稚です。学問の府に相応しくないことは明らかです。
(2)思想
体育会系の思想は勝利主義です。
勝利者は自画自賛し各種資源を独占し、敗者は勝者を称えます。
敗者の数が多いと、勝者のカリスマが高まります。仲間(多くは敗者)を多く得るため、組織を拡大させます。
人工的に構築された虚構(スポーツ競技)を真理であると思い込み疑いません。
スポーツ競技でケガをしても自己責任であることを承知しています。
(3)組織
上下関係が厳しいです。同類で群れます。このことにより他者を認識しません。他者と議論をしません。群れの世界観に浸ります。
規則を踏襲し、抜本的な変革をしません。変革をした場合これまでの記録の価値がなくなり高位者の社会的地位がなくなるためです。
勝利主義思想の下で、スポーツ競技での勝利だけに留まらず、社会的地位・権力も求めています。これにより、行政機関や大学における体育会系の地位は高いです。
体育会系が勢力を伸ばしているのは政治のチカラがあるからです。
多くの市民は行政にスポーツ競技関係の施策を期待していません。にも関わらず、約50万人もの多様な市民が住む東大阪市が「ラグビーのまち」にされてしまったのは、ラグビー愛好者によるものです。迷惑なだけです。
7.考察
大学は学問の府であるにも関わらず、体育会系が大学に存在し、その社会的影響力が大きいのです。
体育会系が行っていることは、人文学ではなく、学問ではありません。
体育会系は理不尽な振る舞いをしています。
これに対抗できる適切な立場の者は文学部です。
しかし、文学部の学者は何の活躍もしていません。活躍するのは自己の雇用の場に危機が及んだ場合です。
日本学術会議の任命拒否問題によって、学問の敵は政権であるかのように見えます。
しかし、それだけではありません。敵は、文学部内にいる非人文学者です。
非人文学者は、社会問題を無視し、趣味娯楽として文学を取り扱っているのです。これでは「文学部不要論」が出てきます。
人文学の評価は、大学や学部単位で決まるのではなく、学者個人単位で決まります。しかし、非人文学者が文学部に在籍しているのであれば、組織運営のあり方に疑問が出てきます。
自然科学系を含めて、全ての学問は人文学を基底に置かなければなりません。
人文学を基底としない学問や学者を大学に在籍させることは不当です。
大学人は研究領域の壁を越えて、相互に、雇用の場を賭として、人文学的見地から批判しあわねばならないのです。
そういう意味で、私の主張は、正確には、「文学部不要論」というよりも、「人文学が基底に無い学問や学者を文学部から排除せよ論」です。
学術会議問題は外部から持ち込まれた問題です。この問題の所在は説明責任を果たさない政権側にあります。
しかし、大学側(学問側)には何の問題も無いのでしょうか。大学側(学問側)だけが正義なのでしょうか。
大学側には、意義もなく実施している分野があります。それは既述のとおり、文学部と体育会系です。このような、おかしなことを、おかしなまま放置するのであれば不要論が出てくるのは当たり前です。
人文学は、他に影響を及ぼすことによってこそ、その意義が発揮できるのです。人文学徒が文学部と体育会系の問題を解決すべきです。それができないのであれば、人文学は、他の文学と同等で、趣味娯楽であって、文学部不要論の対象に含まれることになります。
文学部不要論や体育会系の問題が学問や大学の本質的問題ではないことは理解できます。しかし、この程度の解決ができないのであれば、それ以上のことはできないと思います。
大学における体育会系の勢力の程度は、その大学の民度なのです。
大学人同士の相互批判が真の姿に成長したとき、大学から体育会系を排除することができます。そのように組織が正統化できれば、日本学術会議のような大きな対外的な問題にも正しく対処できるのではないでしょうか。
文学部を発展的に解消し再構築しましょう。
まとめると次のとおりです。
1.人文学は他の領域に影響を及ぼす必要がある。
2.文学部の大半の活動は象牙の塔であり趣味娯楽化している。
3.非人文学者を文学部から排除しなければならない。
4.体育会系を大学から排除しなければならない。
結論:戦う人文学が必要だ!
以上