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あいさつは何のために - 校長先生の長い話

何のために、
あいさつという行為を、
自分が、
しなければならないのか。



葬式は何のために

私自身は、高校生の頃は、あいさつへの疑問というよりも、葬式のあり方に疑問を持っていました。

私は、高校生の頃、次のように考えていました。

葬式って、死んだ人のためにするのですよね。
死んだ人を、悼む(イタム)のですよ。
悼むとは、人の死に対して悲しみ嘆くという感情を表現するってことです。
悲しみ、嘆くってのは、個人的な感情です。
なので、葬式など行わなくても、心の中で、その死んだ人のことを思えば、それで良いのです。個人的な儀式であって十分なのです。
家族で行う葬式であれば、悲しむ者同士なので、良いとは思います。
でも、悲しみの感情を直接的に共有しない葬式を行うことは、むしろ、死んだ人に対して失礼です。例えば、国葬など。
何故、人は、悲しみの感情を伴わない葬式をするのだろうか?
そして「死を悼みます」とか言うのだろうか?

このような疑問を持っていた高校生(私)は、通っていた高等学校の生物の先生(小柄な男性で、通称:ネズミ男)が授業の雑談の中で、次のようなことを話すのを聞いた。

(余談:先生の雑談って、社会を知らない学生からすれば、すごく教養を得ますね)

葬式は、人付き合いのためにするのだ。

この話を聞いた高校生の私は、怒りの感情を覚えました。

全然、悼んでいない。
人が死んだのに、悲しい・寂しいという、人間としての感情が無い。
どこが、悼んでいるのだ!
不純だ!
偽善だ!
クチでは「悼みます(いたみます)」と言っておきながら、実際には、弔辞(ちょうじ)を棒読み(ぼうよみ)している。
人付き合いを目的に行う葬式は、生きている人同士の式だ。死んだ人のことを思っていない。

私は、その後、成長して、この生物の先生の言っていたことが、理解できました。
ただし、その理解とは、発想の仕方の理解であって、その発想が正義であるとの理解ではありません。

後で知ったのですが、この生物の先生は、その後、この高等学校の名誉校長になってました。しかるべき人物が、しかるべき社会的地位に就いたのです。


高校生は、人生の初心者なのです。

高校生は、高校生なりに、その経験の範囲内で学習し疑問を持った、ということです。疑問を持つことは正当です。考える素材が少ないのですから。

大人は、若者に対し、丁寧で、合理的な説明をすることが必要です。

高校生に対しては、「他人のモノマネをして同調行動をしろ」という同調圧力をかけるのはよくありません。そんなことをすれば、思考停止を良しとする教育になってしまいます。


あいさつも、葬式に似ている

あいさつも、葬式に似ています。

相手に敬意を持つという点で。
そして、本当は、敬意を持っていなくても良い、という点で。

推測ではありますが、ある種の(私のような)高校生は次のように思うのではないだろうか。

相手に敬意を持たずに、あいさつなど、できようか?
相手に軽蔑の念を持っているにも関わらず、あいさつという行為をすることは、むしろ、相手へのバカにする感情を表現するに等しい。
そして、自分自身に忠実でない、という意味で、屈辱だ。

一般的な社会人であれば社交辞令をわきまえています。

内面はどうあれ、表面的な態度さえ整えば良いので、チャラチャラっと簡単にあいさつをこなします。面従腹背めんじゅうふくはい

でも、自分の思いに純粋な人間であれば、あいさつ不要論者となるでしょう(かつての高校生だった私のように....今もそうかもしれんが。なので、老害さん呼ばわりされる)。

自分に純粋な(社会性の無い)者の立場から見れば、本当に、何故、あいさつをしなければならないのか、理屈として理解できないのです。

他人と同調行動を取れない人は、社会規範について、知的に理解をしていくしかありません。

情緒的に、又は集団圧力をかけて、同一行動を誘発させようとしても、本人からすれば苦痛ですし、何も学びません。思考停止の強要です。それは、刑務所のやり方でしょう。


校長先生の長い話

私の出身校である公立の高等学校の校長先生による文書を、次のとおり引用させて頂きます。

 「返事」や「あいさつ」が「当たり前」となっていない集団は、「何故、そのようなことが必要なのか。」と理屈にこだわる傾向があります。「返事」や「あいさつ」が当たり前のように習慣として身についている集団は、理屈よりまずは行動を起こしています。そして「返事」や「あいさつ」を徹底すると、その場の「空気」が変わることに気づき、さらにその質を高めようとします。●●高校で生徒諸君に伝えている「返事!あいさつ!声!ダッシュ!!」は「人格形成」です。徹底するからこそ創造される「空気感」を知って欲しいと思っています。名前を呼ばれた時の気持ちの良い「はい」という返事、指示を受けて答えるしっかりとした「はい」という返事等、「返事」にはいろいろありますが、共通することは前向きな「返事」には、前向きな気持ちがこもっているということです。前向きな気持ちがこもっていますので、「返事」を受けた人も気持ちが良くなります。逆に適当な返事は相手の気持ちを害することさえあります。あいさつも同様です。毎朝交わす「おはようございます。」というあいさつにも、「今日もがんばります。」といった気持ち、昨日お世話になった方と出会ったとしたら「昨日はありがとうございました。」という気持ち、地域でお世話になっている愛ガード等の方への「いつもありがとうございます。」といった気持ち、来客の方々への「ようこそ。」という気持ちなど、それぞれの気持ちがこもったあいさつがありますが、共通することは、相手の方が気持ち良くなってこそ「あいさつ」であって、適当なあいさつは「あいさつ」と呼ぶにはふさわしくありません。

 ●●高校は「日本一輝く学校」を目指しています。日本一「あいさつ」の爽やかな学校に、日本一「返事」が素晴らしい学校に創りあげてください。「意識」が変われば「行動」が変わり、「行動」が変われば「習慣」が変わります。「習慣」が変われば「結果」がかわりますので、生徒諸君の「意識」で、必ず「日本一輝く学校」を創りだすことができます。前進あるのみ!理屈を重ねるより、まずみんなでやりきりましょう。

2020.07.01付け文書

https://school.higashiosaka-osk.ed.jp/nisshin-h/attach/get2/321/0 (リンクは次のとおり)


校長先生の長い話への意見

何故あいさつが必要なのか、という問いは、知的好奇心に基づく疑問です。
知的好奇心は学習に不可欠であり、学習を円滑にします。

高校生であれば、漠然としているイメージを、明確化・論理化したいという知的欲求が湧きます。その知的欲求が説明能力などを向上させます。
また、教育者側としても、言語化を促す教育をしなければなりません。
(正確には、知的欲求ではないと思うが、ここでは深く触れないでおく)

「当たり前」を無自覚に過ごすのではなく、俯瞰的ふかんてき視点から(機会をとらえて)問い直し続けることの方が、合理性が高められていくと思います。

大人の言うことを、小学生のように、ただ単に聞いて学んでいた態度から脱皮し、高校生になれば社会の各種事象に対して合理的説明を求めるように成長するのです。

人間や社会のあり方を、言語化し、論理化し、説明できる事象として捉え始めることは、高校生として、年齢にふさわしい成長をしているということです。

この言語化が、大学での学習態度や大人としての学習のあり方へとつながっていくのです。

むしろ、高校生にもなって、何の疑問も感じず、あいさつの形式上のやり方をモノマネで学ぶという態度の方が、思考停止などの何か問題が発生していることを疑った方が良いでしょう。

教科教育の、例えば、世界史の授業において、生徒が「何故、世界史を学ばねばならないのか?」という問いを発した場合、教育者側としては、それを機会として捉え、丁寧に説明をしたり、議論をしたりすることは有益です。
丸暗記の世界史などには価値は全くありません。

問題意識を持てば、あとは、一人でその解決に向けて、情報収集などをし独学で勉強をすることにつながります。そういう大人の勉強方法を身に着けることこそ重要です。そのため、問題意識を持ったこと(問いを発っしたこと)は良い学習の機会です。実際、「世界史」そのものは、大人になっても何の役にも立ちません。

にも関わらず、この校長先生は「理屈にこだわる」として、知的好奇心を価値の無いものとして取り扱っています。
この校長先生は、教育のあるべき方向とは、全く逆のことをやっているのです。

校長先生自身が、「何故あいさつが必要なのか」という知的好奇心を満足させられる合理的説明ができるようにならなければなりませんし、それをしなければなりません。

その説明が高校生にとっては、物事を考えるための素材になります。

問を発した高校生は、本当にわからなかったのだと思います。なので、模範解答は校長が示すべきです。思考材料が無い状態であるにも関わらず「自分で考えろ」と指導しても成長しません。もちろん、あいさつのあり方の意義は模範解答の他にも色々あるでしょうから、生徒は、今後、様々な状況を経て、あいさつの意義を自分なりにまとめあげていくことになるでしょう。

もし、学生が、先生にあいさつをしないのであれば、それはそれで、あいさつをするだけの価値のある人物ではない、との評価が下されているのかもしれません(笑)。


あいさつのあり方

社会人には、アイサツという外形上の振る舞いが求められる場面が、多々あります。

あいさつをする相手に対して、尊敬の念などを持つ必要はありません。これが、実態であり、結論です。

葬式を仕事にしている人や、検死を仕事にしている人が、遺体に出会うたびに感情的に高ぶる必要はありません。あいさつは儀礼です。
葬式で、焼香をする時、外形上の振る舞いさえ整っていれば、内面がどうあろうと、何も問題はありません。

あいさつの所定の形式を満たせば「礼という行為を、貴重な人生の一定の時間を費やし、努力して行った」ということで、世間の皆様方から受け入れて頂けるのです。

「相手への尊敬の念を持ってあいさつをすべし」と教育をされた者は、特定のターゲットに対しあいさつをしないでしょう。軽蔑すべき相手に社会儀礼上あいさつを求められる場合、あいさつをすることに強い嫌悪感を持つことになるでしょう。
それはそれで、本人にとって苦痛です。

あいさつのあり方は、合理的に解釈し運用をした方が、大人に成長していく高校生にとっては有益です。

高校生の立場からすれば、そもそも、あいさつのあり方に対して、どう考えれば良いのかが分からないため、校長先生なりの考える素材を提供しても良いかもしれません。「返事!あいさつ!」などのキーワードの羅列連呼指導ではなく。

あいさつをどのように考えれば良いのかは、物事をあれこれ考え始めた高校生にとっては身近で良いテーマです。この思考のための素材を提供することは、教育者として重要です。「すべき論」ではなく。

高校生の方が、校長先生よりも、ずっと大人なのかもしれません。高校生であっても、人間関係の達人はいます。

あいさつは、分かり易く言えば、付き合いです。
「あいさつとは、付き合いである」程度のことは、高校生になれば、教えられなくてもだいたい誰でも分かります。

しかしながら、ある種の思想があいさつ行為に付加された場合、不都合が生じ、疑問がわきます。

先ほど述べたように、「相手に尊敬の念を持ってあいさつしよう」という思想が現われた場合、「尊敬できない人に、あいさつをするのが苦痛になる」という副作用をどのように解釈すれば良いのか分からない場合があります。
それが、思想的に発展していくと、尊敬できない人にはあいさつしなくても良い、という発想になるかもしれません。

「返事!あいさつ!声!ダッシュ!!」は「人格形成」です。という具合に、校長先生は単純に言い切ってますが、物事を考え始めた高校生には、もっと丁寧に説明をすべきです。

この校長先生の説明の仕方だと、思考停止を高校生に勧めているようです。

あいさつは、手段であって、目的ではありません。しかし、この高校では目的化しているようですね。

以上

#学校教育 #東大阪市 #日新高校