文化政策とスポーツの問題点 - 東大阪市
東京五輪を無理矢理開催する方針など、体育会系の政治主導に迷惑をしている中、行政の文化政策にまで体育会政策が含まれることになりました。
問題意識
東大阪市第3次文化政策ビジョンが令和3年(2021年)3月に策定されました。
そこにスポーツが盛り込まれました。
以前は含まれていませんでした。
スポーツは、競技会において優秀な成績を収めることを目的としています。
個人で楽しむには問題はありません。趣味・娯楽です。
しかし、スポーツの成績を競うことをコンテンツとする事業を、公共機関が行うことには何の価値もありません。
スポーツで優秀な成績を収めるには、勝利しなければなりませんがが、多数の敗者を生み出します。敗因には色々ありましょうが、そこには歴史的・経済的な要因もあります。本人にはどうすることもできない原因もあるのです。
経済や体格などの格差を前提とした上で勝利を収めることを目的とするのですから、これを文化政策に組み入れることは、全く承服できません。
このようなビジョンが成立してしまったことは、(具体的な事業の規模とは関係なく)文化政策のあり方として大きな転換です。
スポーツを組み入れたことで、文化政策の哲学が大幅にズレてしまいました。
スポーツの振興は、推進派の人にせよ、反対派の人にせよ、政治の影響が大きいことは認めるでしょう。
東大阪市の文化政策においてアームズ・レングスの原則は崩壊しました。
(参考)アームズ・レングスの原則
https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/268580_935068_misc.pdf
私(この記事の著者)に対して「ラグビーが嫌いなんだな」という感想をもつかもしれません。
私が提起しているのは「公共機関はいかにあるべきか」というテーマです。
その議論のネタとして「ラグビーのまち」を扱っています。
東大阪市第3次文化政策ビジョンとは
「文化政策」というと、趣味・娯楽を公共施設で行う事業をイメージするかもしれません。なので、不要な政策であるという思いがあるかもしれません。
ここで使われている文化という言葉は、日本語として一般的に使われている文化という意味ではありません。文化政策(cultural policy)という用語は術語(専門用語)です。
文化政策は、なんらかの困難を抱える市民にも、文化芸術に触れる機会を設けようとする政策です。また、SDGs(持続可能な開発目標)を考える機会を提供する政策でもあります。
公共機関が主導する事業なので、趣味・娯楽が目的でないことは理解できると思います。
文化政策は、個人や多様性を尊重する政策であるため、自治体には無くてはならない政策です。
東大阪市第3次文化政策ビジョンは、東大阪市における、文化政策の最新版(2021年4月時点)です。
市は、2021年1月に、このビジョンのパブリックコメントを実施しました。このパブコメへの私の意見を次のリンク先に書きました。
パブコメの結果、ビジョン案のスポーツに関する記述には修正は無く、成立してしまいました。
東大阪市のパブコメにおいてスポーツ政策を批判するとパブコメ全体が削除されてしまいます。
パブリックコメントの問題点 東大阪市役所
なので、次のURLから関連ファイルをダウンロードできるようにしました。
https://drive.google.com/drive/folders/1qiNfTTCY2toZsyjwRdFS82mVA-ourLDd?usp=sharing
東大阪市第3次文化政策ビジョンの特徴
本ビジョンの特徴は、文化政策にスポーツが盛り込まれた、ということです。
いままで無かった政策が組み込まれたのですから、それが目玉(特徴)になるのは当たり前です。
しかし、市が作成した「概要版」(ビジョンを簡潔に要約した文書)では、スポーツはどこにも書かれていません。
どこの自治体にもあるような文化政策の概要になっています。
人権文化部が所管する文化政策の具体的なスポーツ事業は、実は、他の部(都市魅力産業スポーツ部)の既存のスポーツ事業です。
文化政策(人権文化部)単独でスポーツ事業を創設・実施するのではありません。
他の部署の既存のスポーツ事業の名前だけを借りてきて、文化政策の事業一覧にその名前を掲載するだけなのです。
事業実態としては、既存であり、新規性が無く、市民の実際面の利活用には影響・変更が無いため、市が作成した概要版では目玉(特徴)にはなっていません。
しかし、ビジョンは、文化政策の哲学を整理してまとめることが本務です。具体的な事業の計画書ではありません。
具体的なスポーツ事業が既に実施されているからとか、その規模が小さいからといって、ビジョンの目玉(特徴)から削除して良いわけはありません。
スポーツを文化政策に組み込むという決断をした意味は大きいのです。文化政策の哲学を変えたのです。
文化政策の哲学に関わる変更を行ったにも関わらず、市民に明示しないのは不誠実です。
今後の可能性としては、本ビジョンを根拠に、文化政策として、スポーツ事業を新規に立ち上げることもできます。
概要版においてスポーツを目玉(特徴)として扱わないのであれば、何のために、わざわざスポーツを組み込んだのかが理解できません。
スポーツに関する記述内容
ビジョンに書かれてある、スポーツに関する記述は次のとおりです。
パブコメでの主な回答
私の意見は上記URLの記事に書きました。スポーツを排除してください、という趣旨の意見です。それに対する、市からの主な部分の回答は次のとおりです。
「スポーツ」という文言の記載
上記回答では、文化庁HPにおける文言を引用し、
という書き方をしています(再掲)。
この書き方は、文化芸術基本法(平成13年法律第148号)第2条第10項の
「観光,まちづくり,国際交流,福祉,教育,産業その他の各関連分野」
と同じです。
これら文言には、スポーツはありません。
ビジョンの11ページには次のとおり書いてあります(再掲)。
スポーツが挿入されています。
法律の文言中にスポーツが含まれているかのような、誤解を与える書き方なのです。ウソを書いている、と言っても過言ではありません。
このような書き方は、公文書として完全にアウトです。
しかし、東大阪市役所職員は、私がパブコメで指摘しているにも関わらず、無視しました。
市民からの指摘を無視して計画を策定してしまった他の事例について書いたのが、次の記事です。人権を尊重すべき部署が市民からの合理的意見を無視しています。担当部署は、同じ人権文化部です。
スポーツを文化政策に組み入れるための、市役所の論法は次のとおりです。
1.「スポーツはあらゆる分野に関わる」
2.「文化芸術もあらゆる分野に関わる」
3.「あらゆる分野に関わるという意味で同じであるため、文化芸術にはスポーツが含まれる」
現象面では同じかもしれません。でも、文化芸術とスポーツとの各々の趣旨を無視しています。
スポーツは社会的格差を前提にした勝利主義です。社会格差を放置する側面があることから、文化政策に反しています。
オリンピックの理念
市の回答では、「オリンピック....は、....あらゆる分野に関わるもの」である。ゆえに「文化芸術」である。という論法です。
東京五輪はあらゆる分野に関わるため、スポーツを文化政策に含めることが、「社会動向の変化のひとつ」とするのが、本ビジョンの考え方です。
オリンピックの理念そのものは有意義ですが、実際に行われる東京五輪は、オリンピックの理念に反しています。
東京五輪は政治主導であることから文化政策の趣旨に合致しません。アームズ・レングスの原則に反しています。
オリンピックは、あらゆる分野に関わりますが、主に金銭目的です。文化芸術の趣旨に反しています。
大阪には、五輪を中止した場合、カネの面で損をする、として、イノチの議論を無視している名誉教授がいたりします。
(参考)関西大学 プレスリリース「宮本勝浩名誉教授が試算。東京五輪の延期、簡素化、無観客、中止、それぞれによる経済的損失」を配信
https://www.kansai-u.ac.jp/ja/about/pr/news/2021/01/post_5525.html
「ラグビーのまち」の魅力?
パブコメの回答には次の記載がありました(再掲)。
「ラグビーのまち」は魅力なのでしょうか?
それを発信することは、文化政策の意義に合致するのでしょうか?
確かに、近鉄奈良線東花園駅近辺では、自治会(町内会)が「ラグビーのまち」を標榜しています。
でも、東大阪市全体の人口は約50万人なのです。
50万人もの市民がラグビー愛好者であるわけない、ってことぐらいは常識でわかりますよね。
「ラグビーのまち」って聞いた瞬間に「ありえない。なんか変だぞ。市民の精神が行政に操作されているな」って感じて欲しいです。
東大阪市に住む市民といえども、他の地域に住む市民と同じで、趣味・娯楽は多様です。そして、他の地域と同様にラグビーに人気はありません。
「ラグビーのまち」と言い続けて、10年以上になるにも関わらずです。
市立の学校で「ラグビーのまち」教育を行うため、子どもはラグビー愛好者になるでしょう。
大人であっても「ラグビーのまち」の気分になっているかもしれません。
もちろん、それは、ラグビー競技が面白いのではなく、市役所によるプロパガンダの影響です。
上の写真は市の広報誌による「ラグビーのまち」のプロパガンダです。市民には、そのような実態はありません。
沖縄のエイサーや高知の阿波踊りのような、市民自身による盛り上がりが無いのです。なので、税金を使って、市の広報で盛り上がりを人口的に作り上げているのです。
「ラグビーのまち」を標榜することによって、「政治・行政が市民の精神を支配するまち」、「実態が無いにも関わらず、虚像を誇示するまち」という印象を持ちます。「ラグビーのまち」は魅力ではありません。
東大阪市の公教育によって子どもがラグビー愛好者に育てられてしまうため、子育て世代は注意した方が良いです。
新たな価値の創出
パブコメに対する市からの回答には次の文言がありました(再掲)。
文化芸術は、新たな価値を創出します。
でも、スポーツはどうでしょうか。何か価値を創出するのでしょうか。
スポーツは、ルールに従う、勝利を目指す、勝者が称え(たたえ)られる、ということです。
スポーツは、文化芸術とは、真逆です。
文化芸術は、ルール自体を変更・進化させますし、勝利という概念がありません。
スポーツは新たな価値を創出しません。宗教的に、精神を支配します。
スポーツは感動を生み出す、という主張があるかもしれませんが、それは、盛り上げ・演出の結果です。周囲からの盛り上げ・演出に乗せられていることを自覚した方が良いでしょう。諸般の社会格差を前提にした上での勝利主義なのです。
未来投資戦略2018
ビジョンには次のとおり書いてあります(再掲)。
未来投資戦略2018を根拠として政策を展開していく方針です。
未来投資戦略2018は、2018年6月に、内閣総理大臣をトップとする日本経済再生本部が主催する未来投資会議において審議・策定されました。
未来投資会議は、その後現在も継続して審議を続けており、2020年7月30日には「拡大未来投資会議の検討項目のタタキ台」が配付されるなど、観光立国のあり方を適宜社会情勢に見合った形で検討をすすめています。
この検討項目のタタキ台には「観光立国2030年訪日外国人6000万人軌道への回復のためには、」と記されており、「6000万人」計画が現時点では破綻していることを暗示しています。
成長戦略実行計画案(2020年7月17日)では、「2.今後の検討」に「海外との人・物の動きの再開や観光立国の実現等のための人流の回復」(19ページ)と書いてあり、成長戦略の本体部分には観光立国の記述がありません。
観光立国のあり方については、現在コロナ禍の真っただ中なので、方向性を明示できないのです。Gotoのような単発的な事業はあるかもしれませんが、計画に盛り込めない、盛り込まないというのが現状の国の行政の判断です。
このように、社会情勢は動いているのですから、最新の政府見解を参照することが賢明です。
にも関わらず、東大阪市は3年前(2018年)の計画を根拠にしています。
未来投資戦略2018に関する私のパブコメ意見は次のとおりでした。
このパブコメ意見に対する市からの回答は次のとおりでした。
「同頁に注釈」とは次のとおりです。
何故、訪日外国人が減少していることが回答になり得るのでしょうか?
訪日外国人が減少していることを認めるのであれば、なおのこと、未来投資戦略2018の破綻を認めた、ということです。
意見に対する回答になっていません。
未来投資会議では、訪日外国人が減っている旨の文書がありますが、それは検討項目としてであって、計画としては観光立国のあり方に触れていません。減少していること(検討すべきこと)を根拠に、ビジョンを示すことはあり得ません。
回答の「また、」の段落の説明で、「不確定要素が大きい」、「感染症の影響は反映せず」とあります。
ビジョンというものは、将来を描くべきものです。
「不確定要素が大きい」のであれば、ビジョンなど描けるわけがありません。どこの誰が、不確定要素の大きいビジョンを求めるのでしょうか?
感染症の影響は何らかの形で、社会・経済に大きな影響を与えていますが、その感染症の影響を反映させず、取り除いているのであれば、ビジョン(将来を描く設計図)ではありません。
ラグビーワールドカップ2019™日本大会への評価
ラグビーワールドカップ2019™に関する私のパブコメ意見は次のとおりでした。
これに対する市からのパブコメ回答は次のとおりでした。
市としての評価を下すのですから、市民の観点からみた評価であらねばなりません。
しかるに、この回答をした東大阪市役所職員は、ラグビーの愛好者であるためか、ラグビー業者が下した評価を、そのまんまコピーして、市の公式評価にしています。
「テレビ視聴率」は、生活者である市民にとって何の意味もありません。
「試合チケットの販売状況」は、事業者が得るカネです。
大会主催者が自身のイベントを礼賛することは当たり前です。評価に何らかのバイアスがかかることは常識です。役所は、公共の観点から、事業者とは独立した立場で評価をすべきです。
経済的影響には税金も含まれています。多額の税金を使えば経済的影響も大きくなります。
他の趣味・娯楽に使うハズだった消費者のカネが、ラグビーに流れただけです。ラグビー大会が無ければ無いで、他の消費に回っただけです。
市役所のラグビー愛好者は、自身の趣味・娯楽のために、公共機関と税金を動かし、かつ評価さえもラグビー業者に依存したのです。
市の回答は「ラグビー愛好者のためにこの大会を行った」と書いてあるようなものです。愛好しない市民には関係無いという発想に基づいています。
この発想は、少数派を無視する発想であり、文化政策の理念とは真逆です。
競技のスポーツと、文化としてのスポーツ
令和3年(2021年)3月1日に、令和2年度第5期第8回東大阪市文化芸術審議会が開催されました。
この会議でパブリックコメントについて意見交換がなされました。
次は、ある委員の発言です(会議録の9ページ)。
上記発言は、スポーツには、競技のスポーツと、文化としてのスポーツの2個の側面があるので、文化としてのスポーツを文化政策に取り入れましょう、という趣旨の意見です。
理想論として、この意見は正しいです。そのとおりできるものであれば、そうしたいです。
競技のスポーツとは、勝利主義や商業主義のスポーツです。
競技スポーツはスポーツの多面性の中での一つの形態であるため、競技スポーツだけに着目することは、理屈の上では硬直的です。
文化としてのスポーツ(「広い視野」のスポーツ)とは、例えば、オリンピックの理念に基づくようなスポーツです。
委員の発言にあるような「スポーツと文化を重ね合わせて考えていく」作業は実際には不要です。特段新たに議論したり創設したりする必要はありません。
既存のオリンピックは、スポーツと文化を重ね合わせたスポーツなのです。
しかし、残念なことに、表向きにはオリンピックの理念を掲げながら、実際には、商業主義・勝利主義の東京五輪が開催される方針です。
アスリートは、スポンサーを付けたり、お金をかけて、強化します。そして異文化の理解ではなく、金メダルを目指します。
国家プロジェクトとして多くの人の注目を集め、様々な意見が出た東京五輪ですが、理念どおりに執り行われていないことを鑑みると、文化としてのスポーツとは空想論であって、実現は不可能だということです。
逆に、文化としてのスポーツを掲げることによって、実際に行われるスポーツの商業主義や、社会格差などが隠蔽されてしまいます。
テレビでは、スポーツ番組で、勝利者を称えます。
世間では、ほぼ全てが、競技スポーツを扱っています。
「文化としてのスポーツ」であっても、「競技スポーツ」化し、金メダルを称えます。
多くの人々は勝ち負けにこだわるため、文化としてのスポーツは普及しません。継続もしないでしょう。
多様性への理解を深めることが目的ですから、スポーツという手段にこだわる必要はありません。
東大阪市では東大阪市花園ラグビー場を「聖地」として美化・礼賛しています。
高校ラグビーですが、トーナメント方式であるため、敗者には次のプレイをする資格はありません。勝利主義です。
「聖地」であると認識していることから、東大阪市におけるスポーツとは、勝利主義の競技スポーツなのです。
文化としてのスポーツをやるかのような演出をしていますが、その真の目的は、勝利主義の負の側面を目立たないようにすることだろうと思います。オリンピックの理念を実現させたかのようなパフォーマンスが重要なのです。
スポーツの大きな流れ
次は、ある委員の発言です(会議録の10ページ)。
スポーツは、例え文化としてのスポーツであったとしても、勝利を目的にするのですから、社会的格差や個人間格差が前提になります。
競技性の無いスポーツはあり得ないでしょう。
走るのが早い・遅い、というのは、その個人の特性です。
鍛えれば、ある一定程度能力は向上するでしょうが、それは社会格差に依存します。
勝者を称賛することは、敗者を称賛しないということです。
勝ち負けにこだわっていることは事実であり、敗者はその後の試合には出場できません。
この、敗者無視という姿勢・哲学は、行政にあってはならないことです。
「大きな流れ」という発言がありました。これは「多数派がすばらしい」「少数派はダメだ」ということを暗示しています。これは個を尊重する言い方ではありません。
「大きな流れ」という傾向を述べただけであり、考え方を説明していないため何を言っているのかわかりません。
今すでに有しているものを活用していく
次は、ある委員の発言です(会議録の12ページ)。
●「東大阪市の文化資源としてあの花園ラグビー場はあって、これをどう生かすか」
既に述べたように、「聖地」は敗者を捨てる勝利主義思想です。市民社会との親和性は無く、文化資源とは言えません。
花園ラグビー場は、もともと私企業の近鉄の所有でした。
それが市の所有になりました。
いまさら「どう生かすか」を考えるのは遅いです。
市の所有にする時点では将来へのビジョンが無く、「どう生かすか」を考えていなかった、という証拠です。
●「ないものをわざわざつくっていくとコストがかかりますが、東大阪市が今すでに有しているものを活用していくというこの視点がやっぱり非常に大事です。」
無いものを作るとコストがかかるので、有るものだとコストはかからない、という論法です。
個人や多様性を尊重する社会をめざすことに対して、コスト計算の考え方を持ち出しています。
ここは文化政策に関する審議会です。土木建築関係の審議会ではありません。個人や多様性を尊重する社会をめざすという発想がありません。
コスト計算で言うならば、ラグビー事業にコストがかかっていると思います。
●「東大阪市が持っている、その特性を生かして活用していくということで、文化政策としてそれをバックアップする」
「東大阪市が持っている、その特性を生かして活用していく」という、ただその論拠だけで「文化政策」と位置付け「バックアップする」。
非論理的です。
個人や多様性を尊重する社会をめざすという発想がありません(再掲)。
ラグビーという「都市文化」
次は、ある委員の発言です(会議録の15ページ)。
そういうことであれば、ラグビーにこだわらず、他の諸活動であっても良いわけです。何故ラグビーを使うのかという根本問題への説明が必要です。
続きの発言です(会議録の15ページ)。ここに根本があります。
都市文化というキーワードが重要なので、調べましたが、定義は書いてありませんでした。都市文化を示す事象の列挙が書いてあるだけでした。
ここで言う、都市文化とは、一般的な日本語として使われる都市文化ではなく、このビジョンにおける術語(専門用語)です。
「文化の主体とその役割」(ビションの6ページ)には、文化の主体として、
・市民
・東大阪市(行政)
の2個が挙げられています。(2個に分けたことが重要!!)
「東大阪市(行政)」の都市文化として、次の事象(一部)が挙げられています。
市民が主体ではなく、東大阪市役所が主体になっているのです。(ここ重要)
「4 文化の範囲」(ビジョンの4ページ)には、都市文化には「選択・集中の視点が必要」と書いてあります。つまり、行政が、何らかの文化を選択・集中し、そして、何かを選択しない、ということです。
この考え方は、市民のあり方を無視して、東大阪市(行政)が主体となってラグビー事業を文化政策として実施することが可能だ、ということです。
行政が主体となって文化政策を実施することは、アームズ・レングスの原則に反しています。
(参考)アームズ・レングスの原則(再掲)
https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/268580_935068_misc.pdf
アームズ・レングスの原則は、主に経済関係の用語ですが、文化芸術関係にも考え方は適用されており、「行政は、カネを出しても、文化芸術のコンテンツにはクチを出さない」という考え方です。
東大阪市(行政)が主体となる都市文化は、東大阪市(行政)が東大阪市(行政)のためにカネを出して、東大阪市(行政)が標榜するコンテンツを作成する、ということです。
具体的には、東大阪市(行政)は、「ラグビーのまち」を標榜しているため、それを実現させるため、ラグビー普及啓発事業を「文化政策」として実施する、ということです。
このことは、市民が主体になっている文化にクチを出しているわけではないので、市民が主体になっている文化の視点からは、アームズ・レングスの原則に反していません。
しかし、行政が行政のために「文化」コンテンツを作成する行為は、その時点で、「行政がコンテンツにクチを出している」という行為であるため、アームズ・レングスの原則に反しています。
ゆえに、行政が主体となる文化政策というものは、成り立ち得ない、ということです。
ここでは、政策の一般論を議論しているのではありません。あくまで文化政策(cultural policy)としては、あり得ないということです。
東大阪市(行政)が行う「ラグビーのまち」の標榜や、それを実現させるためのラグビー普及啓発事業は、文化政策ではなく、プロパガンダである、と解釈することが妥当です。
東大阪市の多くの市民はラグビーに親しんでいないという実態を無視し、また、そのような不都合な実態を解消するためラグビー普及啓発事業を行うのです。
このラグビー普及啓発事業を「文化政策」として行うことにより、「個人や多様性を尊重する政策」であるかのように見せかけておきながら、「ワンチーム」の思想で市民の精神を支配しようとするのです。
文化政策を審議する委員が、都市文化論を掲げ、文化に反する市政(ラグビー事業)を擁護する理論を構築してしまったのです。
●「ラグビーを使って文化に誘導していく」
文化政策として位置づけられた具体的なスポーツ事業は、ラグビー普及啓発事業です。みなさんラグビーをやりましょうという事業です。
一旦ラグビーの世界に入って、そのラグビーから文化に誘導する、という遠回りをするということです。
わざわざ一旦ラグビーに入らなくても、個々の現在の立ち位置から直接文化に誘導すれば良いのではないでしょうか。
この「遠回り」戦略は、個人や多様性を尊重する文化政策に反しています。
何のために遠回りをするのか、何故ラグビーを使わねばならないのか、という疑問には答えていません。その部分は、都市文化論によると、行政に丸投げなのです。
まとめ
文化政策は、個人や多様性を尊重する政策です(本来ならば)。
東大阪市は、何故、スポーツを文化政策に組み込んだのでしょうか。
それは、文化政策が持つ、個人や多様性を尊重する色彩を欲しかったからです。
そのため、審議会では「都市文化」論を構築し、スポーツを文化政策に組み込みました。
「行政が行政のために作ったコンテンツも文化だ」という理論です。
東大阪市では、「ラグビーのまち」政策は「文化政策」だという発想であるため、ラグビーは個人や多様性を尊重している、というオスミツキが与えられたのです。
しかし、私の考えでは、ラグビーを通じて個人や多様性が尊重される、という発想は、文化政策ではありません。本来ならラグビーの有無に関わりなく、個人や多様性が尊重されるという発想が正しいのです。
東大阪市にはマスコットキャラクターの「トライくん」があります。行政のあり方を評価するのに、カワイイことは不要です。
冷静に観察して合理的に考えましょう。
ラグビーの普及には税金が使われているのです。
ラグビーの競技が面白いために、東大阪市内で流布しているのではありません。
以上