不美人であることを笑いのネタにできるのか
たんぽぽの白鳥久美子さんの記事を読んだ。
強烈ないじめに遭ったにも関わらず、それを客観的に分かり易く他者に伝達できていることに、人間としての深さを感じた。
良い記事というものには触発がある。たかまつななさんの記事はとても良い。読んだ後に、自分なりにいろいろ考えさせられる。
入学式のときに、白鳥久美子って名前のやつがいるって話題になったみたいでクラスに男子が見に来た
この男子の心理は、私の中にもある。また、その状況を注意できない自分もいる。
多くの人々、特に子どもは、善悪の判断ではなく、モノマネで学んでいく。
善悪の判断は、多くの事柄を学ばねばできない。
でも、モノマネであれば、知的努力は少ないので、比較的多くの人々が実現可能である。
なので、いじめなどの問題解決には、多くを学んできた大人の関与が必要となる。
ただ、上記の男子の心理のように、いじめを未然に防ぐことは、ほぼ不可能である。
お笑いの中で、不美人であることを笑いのネタにした場合、人々はそれを学習する。
「不美人であることを笑ってもいいんだ」と。
そして、そのネタをマネする。
大阪の人間は、吉本でやったギャグなどを日常でも使う。
ー何か心の支えはありましたか?
白鳥:1人で図書館に行って本を読むことですね。主人公に感情移入して別の世界に行けるのが楽しかった。
このような白鳥さんに共感できる人は多いだろう。
でも、私はちょっと違う。いじめを学習するのだ。いじめられたら、他の誰かをいじめる。
主観的には、いじめだとかいう発想はない。「いじめ」という具合に、大脳が認知するように昇華してしまえば、いじめはしない。
ーいじめていた同級生の子はどういう認識だったんですかね。
白鳥:いじっていた感覚でしょうね。笑っていましたしね。
そういうことなので、大人が指導するなどして、大脳がしっかり認知できるようになる必要がある。
加害者本人が、自分でいじめだというふうに気が付くことは少ないだろう。
いじめる人の対処法も分かってきました。乗せていればいいんです。すごいですねって。例えば、いじめてくる人が一生懸命頑張っていることがありますよね。そこを「すごいですね、まじすごいです」って褒めるんです。要するに「太鼓持ち」をやっているといじめられないことが分かりました。
いじめる側の人は自尊心が低い場合がある。相手の自尊心を高めるよう持ち上げるテクニックだ。
白鳥さんだけでなく、いろんな境遇の中で、このようなテクニックを無意識的に獲得する人は多い。相手を持ち上げるスキルのある人は、それ相応の苦労をしてきており、知恵がある。
この知恵が湧き、スキルを身に着けるかどうかで、より良い社会が実現できるのか、私のようにいじめの再生産をするのか、の分かれ道になる。
死んでしまう子は、死ぬって決めているから本当につらいって言わないんだと思います。
これは、本当に鋭い人間観察力だと思います。
私が書いているこの記事の表題は「不美人であることを笑いのネタにできるのか」である。これへの回答は、たかまつななさんの記事に書かれてある。
たかまつななさんの記事の良いところは、知りたいポイントを全部押さえていることだ。
重要なのは、この問いに対して、読者が自分なりに考えてみるってことだ。自分で考える際の参考に、白鳥さんの考えを参考にするのも良い。
「野生の猿」だった私の経験からすれば、「不美人であることを笑いのネタにできるのか」の問いには「できない」が結論だ。
だからといって、白鳥さんをダメだなんては、全く思わない。白鳥さんは十分に学ぶべき材料を提供していただいた。
白鳥さんは、自分自身で考え続けているのです。敬意を表します。
以上