母になって『あたしンち』を読むことがつらくなってしまった話
漫画が好きな子どもだった。
毎月の初めに母からお小遣いをもらうと、お爺さんが営む学校近くの本屋さんで漫画を購入していた。主にジャンプやマガジンなどのコミックスであり、1冊420円くらいだった。
そんなわたしが自身のお小遣いで購入することができなかった漫画があった。『あたしンち』である。
『あたしンち』がテレビで放映されたことをきっかけに、わたしは原作のコミックスを読みたくて仕方がなかった。当時『あたしンち』の単行本が1年に1冊ほど出版されていたが、価格が約1000円であり購入することができなかったことを覚えている。
母から支給される1ヶ月分のお小遣いは500円であるため、2か月分のお小遣いを貯めると『あたしンち』の単行本は購入できる。しかし小学生のわたしにとってお小遣いを2か月貯めることは、留め具のネジがゆるゆるのコンパスでキレイな円を描くことと同じくらいむずかしかった。
お年玉で購入すればよいのではないかと思うかもしれないが、親戚のおじいとおばあからもらった多額のお金たちは母が「防犯のため10年後のあなたの元へ送っておく」と話し、その手続きのため回収されてしまう。話を聞くと母は時空警察の一員だと話す。
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そんなわたしの母もおそらく漫画が好きだったのだと思う。
正確には『あたしンち』が好きだったのだと思う。活字で書かれた書籍が並ぶ母の本棚には『あたしンち』が全巻揃っていた。『あたしンち』の新刊が並ぶという1年に1度の光景を本屋さんで見かけ帰宅すると、母の本棚には『あたしンち』の新刊がわたしをおかえりと迎えてくれるのである。
母が台所で夕ご飯をつくる間、母の本棚の前で『あたしンち』を読む時間がわたしは好きだった。
アルバイトを始めると自分のお小遣いで『あたしンち』の単行本を買えるようになった。スマートフォンを手にするとアニメの『あたしンち』を見ることができるようになった。
恋愛に悩んだときにはゆずぴに一途な「川島」に勇気をもらった。学校に登校することが苦しかったときには周りに流されない「石田」に憧れを抱いた。お小遣いが500円/月のときから大学を卒業するまで、わたしの身近にはいつも『あたしンち』があった。
わたしは新卒で寮母になった。高校生と一緒に暮らすことが仕事になった。寮で暮らす高校生にとってわたしは母親ではないが、少なくとも子どもの頃よりも母に近い立場となった。
わたしは『あたしンち』を読むことがつらくなってしまった。
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幼い頃のわたしにとって、『あたしンち』のお母さんは新鮮な存在であった。言い換えると自分には理解できない存在であった。
みかんがコーヒー豆を買ってくることを忘れてきたときには、お母さんは3コマにわたり火を吐きながら怒り続ける。
みかんが玄関に靴を散らかしたときには、自身の手で靴を更に散らかし、捏造された光景をみかんに見せてガミガミと叱る。
こんなに怒られたら「お母さんの言うことなんて聞きたくない」と子どもは思うのではないか。まるで口うるさい母と暮らすわたしのように。なんで「母親」には子どもの気持ちがわからないのだろう。
子どもの頃のわたしは『あたしンち』を通して「母親」という不思議で新鮮な存在に面白さを感じていた。
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母に近い立場となり『あたしンち』を読んでいると、これまで自分が面白いと感じていた、理解できなかったお母さんの行動が理解できるようになった。わたしは『あたしンち』のお母さんと同じ行動をするようになってしまったのである。
子どもたちは食堂の机にノートと教科書、シャープペンや溶けかけの明治エッセルスーパーカップ(抹茶味)を置きっぱなしにしたまま外へ遊びに出かける。お
菓子作りをした後、黄色い小麦粉製のねちゃねちゃが付いたボウルと泡だて器を流し台に置きっぱなしのまま笑顔でおやすみと言う。
そんな子どもたちにわたしは火を吐き続けてしまう。
もちろん置きっぱなしにしていたシャーペンや色ペンたちが密にならないようバラバラに散らしてから火を吐く。
子どもをガミガミと怒り続けてしまう、幼きわたしが嫌だった自分の姿を『あたしンち』のお母さんは映し出す。まるで鏡のように。
寮母になったわたしは『あたしンち』のお母さんを見ることがつらくなってしまった。
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寮母を務めて1年が経とうしていたある日、『あたしンち』を読んでいた頃を思い出す機会があった。わたしはひさしぶりに『あたしンち』を開いた。
うん。
あ…。
おもしろい。
やっぱりおもしろい!!!
そう!!なんで子どもはすぐお風呂に入らないの!?いつまでLINEの返信を考えているの!!?
そうそう!!!なんで食事の時間にご飯を食べてくれないの!?洗い物のこととか考えてよ!!!
わたしはお母さんの心情が垣間見えるエピソードに「共感」を感じるようになっていたのである。
もしかしたら寮母のわたしは「母親」に近づいているのかもしれない。そんな風に思うとわたしはうれしく感じた。現に子どもとの付き合いに疲れたときに、わたしも通帳を見て元気が湧く体質になっている。
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「共感」のほかに「新鮮さ」を感じたエピソードもある。
お母さんがおかあちゃん(みかんの祖母)のことを思い出すお話。お母さんのへそくりでおかあちゃんに旅行をプレゼントしようとするが「銭がもったいねぇ」とか「宿にウォシュレットがないとダメなんだッ」とか言われてしまう。
子どもの頃に読んだときにはお母さんのおかあちゃんの容姿が衝撃的であったが、母に近い立場となった今『あたしンち』を読み返したとき、「お母さんにもお母さんがいる」という事実に不思議な気持ちを抱いた。
高校生と共に暮らすようになってから子どものことで頭がいっぱいだったけれど、「寮母のわたしにも母がいるんだ」と思ったのである。
そういえばわたしの母も内弁慶でご近所さんと付き合うことがあんまり得意じゃなかったような気がする。子どもの頃は内弁慶の意味なんてわからなかったけど。
そういえばわたしの母もスーパーのポリ袋をいっぱい持って帰ってきてたっけ。豆腐とかお肉とかアイスとか、何かとポリ袋に詰めていた。
わたしンちのお母さんもこんな人だったな。
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母に近い立場になってから『あたしンち』を読むと、生まれて初めてわたしのお母さんを「母親」という立場ではなく「ひとりの人」として見つめることができるようになった気がする。
子どもの頃にはお母さんのことを憎いと思っていたことが数多くあったけれど、それは多分わたしがお母さんに「母親」という立場を求めていたから、母親にしてほしいことを期待していたからだと思う。
ひとりの人としてお母さんを見ると、憎いと思っていたことが急にかわいく感じれるようになった。まるで『あたしンち』のお母さんのように。
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結婚したときや子どもが産まれたときとか、これからも歳を重ねていく中で『あたしンち』を手に取ると、今まで見えていなかった『あたしンち』が見えてくるような気がする。
わたしが本当の母親になったとき、子どもが生まれたときには本棚を買いたい。たくさんの本と『あたしンち』を置くために。
追記: