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パタゴニアへ、行きたい。(パタゴニア)

 丸いテーブル、茶色のソファ、テレビ、薄手の絨毯、壁に吊るされたウォールポケット、雑然と入れられた封筒の群れ。部屋には妻と次男、長男が座り仮面ライダーを見ている。仕事も学校も保育園も忘れてしまいそうだ。今日が日曜日でも月曜日でも、明日は家にいる。明後日も変わることなく。記憶しているものがいかに僅かであることか、1日がすぎることにいかに多くのことが忘れ去られていくことか、思い起こす力を持たない、数々の些事の歴史が、誰の耳にも入らず、どんな記録にも残さず、語り継がれてもいかないゆえに、世界は自動的に空になってしまう。

 次男と妻は朝ごはんを食べ終えていたようだった。冷蔵庫から納豆を取り出し、コンロを見ると野菜スープが作られている。食べていいの、と聞くと、長男が、今作ってるから、作り終わったらいいよ、と言って、立ち上がりキッチンへ来る。コンソメのもとを二つ入れる。玉ねぎ、キャベツ、塩と胡椒。シンプルなスープ。彼の得意料理だった。

 10時くらいにマンションの前で子供二人と遊ぶ。スケートボードと自転車、ホッピングを持つ。コーヒーを片手に持って、日差しに当たる。子供二人は汗をかいて遊んでいる。
 1時間くらいして、家に戻る。泥だらけのままになっていた靴を洗い、昼食を食べる。パスタ。ほとんど奪い合いのようにして食べる。
13時くらい。晴れているので、長男に、一緒に走ろう、と誘うが断られる。せっかくの日なので、あれやこれや策を練る。ロゲイニングのアプリがあったので、買い物までのチェックポイントを適当に設定して、買い物がてらロゲイニングをする。ゴールはアイスクリーム。俄然やる気になる。

 14時に出発して、15時にアイスクリーム屋についた。5kmほど。チェックポイントを作るだけで楽しい気分になる。
 二人でワラーチで行ったのだが、息子のワラーチの紐が切れる。途中から裸足で歩く。家に帰ってくると、息子はゲームをしはじめた。次男と妻は寝ていた。携帯電話をいじりながらウトウトとしてきたので、そのまま眠る。

 17:30に風呂に入る。ご飯を食べてまた、眠気が襲ってきて寝た。「はたらく細胞」をみんなで見る。勉強にもなるし楽しい。いつのまにか9時になったので、次男と長男を歯磨きさせて、テトリスをする。10時になったら、走りに出かける。12キロ。右足首はまだ痛い。タイムも伸びない。伸ばしてもない。
 何があったわけでもないが、記録に残されることにはなる。語り継がれていくわけでもないが、それでもましなのか。広大なインターネットの世界では忘却は当たり前。記録と記憶には天と地のさほども隔たりがある。

『パタゴニア』プルース・チャトウィン 河出文庫

 冒頭、恐竜の生き残り、プラントザウルスの話からはじまる。その冒頭で、福島県いわき市で発見されたフタバススキリュウのことを思い出す。フタバススキリュウの看板を思い出し、高校の陸上部の合宿を思い出す。国道6号線。広野町、天神岬スポーツ公園に行き、女子校の陸上部と一緒に練習をした。

 パタゴニアに関して言えば、山も壁も自然も全てが憧れの場所でしかない。一方でアルゼンチンとチリに分割され、南すぎるその土地に平らな場所はほとんどなく、あったとしても湿地帯で、作物が豊富に取れるような場所ではなさそうだ。
 忘れられた土地、パタゴニアをアルゼンチンとチリが分け隔ててしまうと、一方は国に土地を奪われ、一方は変わらず生活することが起きる。隣同士が隣国となり、それぞれの価値が変わる。

 ボラーニョの『鼻持ちならないガウチョ』のせいで、『パタゴニア』の話がごっちゃになるし、なぜかキューバの話とも混じり合う。どの小説、どの本を読んでも探していた一文は見つからず、似たような文が二つか三つは見つかる。

 『パタゴニア』は旅行記で、それは記憶や思い出からはじまる。一つの長い旅は、その旅へ向かう理由から始まっていく。どこかに何かある、素晴らしい絶景が見つけられた、というような旅行記ではない。誰かが当たり前に住んでいて、毎日を過ごしている。語り継がれることもない、記録されることもなかった日々が描かれる。

 パタゴニアへ一度でいいので行ってみたい。走る方でも、登る方でも構わない。一度でもいい。

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