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妻曰く(ジーザス サン)

 2020年4月16日

 女心までは果てしなく遠い。
 妻が仕事のことに苛ついてるので、ついつい口を出してしまう。そうじゃない、と言われるので、ふんふん聞いてると、そうじゃない、と言う。ミリ単位も女心が分からない。
 よくまあ結婚できたもんだね、と妻が言う。私だって知りたい。どうして私は結婚できたんだろう。当事者に是非ともお伺いを立てたい。
 女心の分かるやつとあなたは結婚できないからね、あなたそういう人、苦手でしょ、と彼女に言う。なので両想いじゃん、と。
 妻は何も言わない。気を利かせた長男が、お父さんはすぐ、と何か言おうとする。何も言っちゃダメ、と妻が横からカットインする。ああいうのは無視するの、と。長男は楽しそうな顔をする。口を一文字にして、出かかった言葉を飲み込んでいる。

 食器を洗いながら、視線の端に入るテレビを見ている。おもしろそうな映像が流れると、なにこれ、とテレビを見ている妻と子供に聞く。見てるところだから分からないよ、と言われる。たしかに。でもそういうことじゃない。
 そういうことじゃない、と妻に言う、その声は水道から流れる水の音にかき消され、なんか言った?と気のない返事をされる。なんでもない。強いて言うなら、そういうことじゃない。わざわざ強いて言わないけど。

 寝そべりながらテレビを見ている。急に妻が立ち上がった、どこ行くの、と聞いた。洗濯物を干すんだよ、という。ベランダの窓を開くと、夜の静かな空気がリビングまで流れてくる。今日はさむいね、と言うと、長男は、今日は暑いよ、と返す。次男は、パパはうんこ、という。いや、そういうことじゃない。

 変わらず、9時にみんなが寝る。9時にテトリスをして、10時に走りはじめた。

『ジーザス・サン』 デニス・ジョンソン 白水社

 妻がおもしろいので、妻のことを書いてたら仲が悪いみたいになった。どちらかといえば仲はいい。そうじゃない、を夏目漱石が英語に訳すなら間違いなく、I Love Youだ。月がきれいなくらいじゃ、互いの時間を共有したいとは思わない。むしろお互いが距離を取ることに必死。じゃないと、「私」も「あなた」も一緒になって一つになってしまう。そしたら、Loveそのもの。キリストにはあんまり興味ない。

 『ジーザス・サン』は1992年に刊行されたアメリカの短編集で、2009年に邦訳されている。訳は柴田元幸さん。11の短編からなり、語り手は同一人物だとされている。一つの細切れの長編小説として読めなくもない。
 
 惨めで、めちゃくちゃなドラック中毒者の語り手が、同様に、惨めでめちゃくちゃな友人たちとの出来事が描かれる。中流階級のきれいで洗練された生き方ではなく、かと言って自堕落的なアウトローな生き方でもない。まさに惨めな人生。社会的な成功も、安定した収入も、惨めな人生にはやってくる。見つかったらあっという間に迷い込んでしまう。それが資本主義というやつ。でかい魔物だ。
 2011年の福島もそうだし、2020年、今の都市圏もそうだ。ギリギリで保っていたものはあっという間に崩れていく。再生までは、少なく見積もって一億光年の時間がかかると有識者たち。長い、ものすごく長い。一人の人生じゃ再生なんてできない。すっかり参ってしまって打ちのめされるか、宇宙人になるか、空回りするか。一億光年前の人は希望と自由を持っているのだろうか。

 収録作、『緊急』には、ナイフで目を刺された男が出てくる。主人公の働く病院に彼は歩いてやってくる。救急車を使わずに。
 ナイフの刺さった目の反対側はプラスチックでできていて、視力はない。ナイフの刺さった目で景色を見ている。彼は、彼の奥さんに刺されたのだという。警察をよぼうか。と尋ねられた男は、死なない限り呼ばなくてもいい、と答える。彼はナイフが刺さったまま、病院のヘッドに横たわり、診察を待つ。どうも片方の手が動かないらしい。神経か何かをやってしまったのかもしれない。

 この情景こそ、私にとってのI Love Youなのだ。完璧な。妻が夫の目にナイフを刺す。隣家の女性が日光浴をしている姿を覗き見したという理由で。彼女は、夫の視界を全て塞ごうとする。もう何も見えないようにしてやろうと。愛らしき口もと目はプラスチック。
 結果的に視力が失われることもなく、なんのダメージもなかった。1日だけ念のため入院して、彼は家に帰る。「目が見えなくならなかったのは奇跡よ、死ななかったのがそもそも奇跡ね」と看護婦は別れ際に男に言う。
 妻なら夫に奇跡を与えることなぞ造作もない。夫が妻に奇跡を与えることはないにもかかわらず。僻みしかない。

 彼女たちは奇跡をもたらす。完璧なる愛を。

 

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