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なくしていた感覚を25年ぶりに取り戻したら、遠い昔に愛されていた記憶が蘇った話

この記事は、こんな方におすすめです。

・自分の感覚は人と違うのかもしれないと思っている
・孤独感があったり、愛されている実感が薄い
・自分は影が薄い/存在価値が低いと思っている
・かゆみと戦っている
・触覚や五感、体感覚、直感に興味がある


思春期にアトピーという地獄

いつからか、私はアトピー持ちだった。幼少期は手足に、思春期からは顔に主に症状が出るという、よくある経過をたどった。

高校の時は、体よりもとにかく顔が腫れ上がっていたのが嫌だった。もともと細い目が、まぶたが腫れているせいでもっと細くなっていた。3駅離れた皮膚科の名医がいるという病院までわざわざ通っていた。薬は、塗ればそれ以上ひどくならないという程度で、きれいに治っている状態になることはなかった。

ただでさえかわいくもないのに、さらにこんな状態で彼氏なんかできるはずもない。一生このままなのかと思ってうんざりしていたし、そういう幸せを、私はかなり諦める人生になるんだろうな…。

ちっとも治らない自分の顔を鏡で見るたびに、がっかりする気持ちを膨らませた。無意識に手で顔をこすってしまうたびに、「またやってしまった」という自責感情を積み上げた。そんなに重症ではない私にとって一番きついのは、このガッカリ感と自責感情を1日に何度も何度も味わうことだ。そんなふうに、他の人は感じなくていいはずの制限と抑圧を感じ続ける毎日がとてつもなく嫌だった。


痛みはなくしたらまずいけど

大学1年のころ、これはもう薬じゃ無理っぽいと悟った私は、どうしたら治るのかを真剣に考えるようになった。アトピーがひどくなるのは結局は、掻く、こすることが原因。…ということは、かゆみをどうにかすればいい。どうやって?かゆみどめも効いてる感じはしないのに?

そうだ。いいことを思いついた。
ーかゆみを止めるんじゃなくて、感覚ごとなくしてしまえばいい。

そうすれば、そもそも掻いたりこすったりする行動につながらない。これがもし「痛み」の感覚だとしたら、なくしてしまうと危険を感知できないから命にかかわる。痛みはなくしたら絶対まずい。だけど、かゆみは別にそういう命に関わるような事態が思いつかなかった。なくしても、ものすごく困ることはないんじゃないか。一応ちゃんと考えた上で、「よし、かゆみという感覚はなくても生きていけるはず」ということで、決行することにした。

この日から私は、かゆみという感覚を「そもそもなかったもの」として生活した。そして、アトピーはだいぶ改善した。改善しても顔は色素沈着で黒ずんだままではあるけど、それでも腫れてないだけで全然違った。

そして、恋愛も結婚もした。かゆみももう「ないこと」にしなくてもよくなった。アトピーは体質的になくなったわけではないので、ときどきかゆくなって薬を塗ったりもするし、蕁麻疹が出たりもした。だけど、あの頃と比べたら全然、ぜーんぜん、たいしたことはなかった。

そうして私はかゆみを切ったことなど、もうすっかり忘れて過ごしてきた。何かのきっかけで思い出すことはあっても、もうその効果は切れていて、いたって普通の感覚を持っていると思っていた。


絶対もっと感覚が強い人のはず!?

「感覚・感性が鋭い」といわれる人がいる。とくに体感覚と呼ばれるもの。ある本には体感覚とは視聴覚を除いた「嗅覚、触覚、味覚」を指すのだと書いてあった。私は光にも音にも匂いにも味にも何もかもに敏感な方ではある。この体感覚が鋭い人は、自分の感覚をヒントに、奥の方の感情に気づくことができる。「腹がたつ」「胸がザワザワする」のもっと繊細な機微がわかる。他にも、身体的にストレスがかかっている状態にも気づきやすくなるし、「直感」も冴えていく。

過去「あなたは絶対にもっと感覚や感性が鋭いはず」と何度も何度も言われてきたが、そんなことを言われてもわからないものはわからないと思い続けてきた。だけどある日の海で語らった帰りの電車で、何度もそれを言われたので、どうやったらいいかわからないなりに「感覚をひらいて」みた。

そうしたら、全身のムズムズ感がドン!!!!と200くらい襲ってきた。大波すぎて、慌てて元に戻した。過去に全身の蕁麻疹がでて、猛烈なかゆみに気が狂いそうになったことがあるけれど、あの感じにものすごく近い。

その時、私ははじめて「効果は切れていない。私は大学1年のときから今の今までずっと感覚(主に触覚)をだいぶ切ったまま生きてきたんだ」と理解した。


切っているなら、戻せばいいだけ

この時私は衝撃を受けたと同時に、嬉しさのようなものを感じていた。そうか、切りつづけていたのなら、復活させればいいだけだ。そして私には体感覚が少ないのではなくて、かゆみだけではなく触覚全体、さらにもしかしたら五感全部の本来ある感覚をも、自分で押さえ込んでしまっているだけなのかもしれないという気もしてきた。

この感覚を元に戻せば、感情に紐づいた繊細な体感覚についても、まだわかる余地がありそうでワクワクした。これは新しい領域へのパスポートだ。

あの時電車の中でどうやったのか説明できないけど、とにかく感覚をひらくことができた。とはいえ私の場合は一気にはひらけないこともわかった。普通にひらいたらまた大波が来てしまうから、ほんの少しずつ、かゆみと触覚を大丈夫な範囲で元に戻していくためのいいアプローチがないか探した。

私はかゆみをまだ切っているとはいえ、事実としては触覚過敏な状態だ。顔に1本でも髪がかかるとかゆい。麻とかウールとかポリウレタンは着ていられない。汗でもかゆくなる。蚊が刺したらわかる。小さな小さなかゆみ・むずむず刺激を増幅して感じ取ってしまう性質がある。

とにかくこれをどうにかしないと、他の感覚を含めて元に戻すことはできないだろう。まずはできるだけ正常化させたい。そこで、触覚やかゆみに関する本をたくさん読んだ中から「かゆみ感覚を正常化する」方法のひとつとして「なでる」というアプローチがいいんじゃないかと思いついた。

なでる。ただそれだけ。やさしく、大事に、自分をなでる。関連する神経が多く集まっているとされている場所を、ただただなでる。本に書いてあったわけではないけれど、今まで読んだ本の内容を総合し、さらに自分との相性を考えると合いそうな気がしたので、とりあえず続けてみることにした。


2週間で、あるものが蘇った

なでるアプローチを中心に、2週間ほど過ごしてみたころのこと。それは突然に起きた。「肌の記憶」が鮮やかに甦ってきたのだ。

祖母が毎日してくれていた指圧の、あのしわしわでやわらかい手。父や母が横向きで寝るそのお腹にスッポリとはまって眠った、心地よくていい匂いがして、包まれる感じ。遠い遠い昔、確かに愛されていた記憶がぶわーーーーっと降り注いだ。

記憶そのものは、完全に忘れていたわけではない。人に伝えたこともあった。だけどそれは事実や情報としての記憶だった。このときは、全く違った「肌の記憶」として蘇ってきた。あんなに愛されていたっていうことを、肌が思い出した。それは裏を返せば、肌の記憶が抜けてしまっていたということでもあった。

そこから連鎖的に、愛されていた記憶が次々にありありと浮かんできた。あれもこれも、こんなに愛されていた。うわ。

大学1年の時に、とんでもないことをしてしまったのかもしれない私は…。

と、ここで気づいた。私の大人時代に感じた生きにくさの原因の一つは、ここにあったのかもしれなかった。わからなかったこととはいえ、その原因を自分自身で作り上げてしまったことに、愕然とした。


触覚とは、いったい何のためにあるのか

もともと触覚は、「(虫などの)外部異物を、掻くことで除去するための感覚」といわれている。

触覚でもたらされるのは「触った感じどうなのか」ではあるが、色々な本を読むともう少し深いところではだいたいこんな内容が書かれている。

・触覚には感情が紐づく(あったかい、つめたい、痛いなど)
・風を感じる→自分の輪郭を認識する=自己存在の感覚
・握手する→相手との関係性を認識する=関係の感覚

これは触覚がない病気の方、事故で足がない方などが感じていることからも、似たようなことがわかっている。つまり、触覚は純粋に「皮膚を圧迫された刺激」だけではなく、そこにまつわる感情やより人間存在に関わる感覚が紐づいている。


かゆみ感覚も、命に関わるかもしれない

これはつまり私自身、かゆみを切ったときに「愛されていた肌感」の記憶をかなり消去しただけではなく、さらには「自己存在や人との関係性の感覚」を切ったんだということだ。それは事実、私自身が何となく感じていた「存在感のなさ」「人との関係性の作り方の難しさ」とぴったり一致する。

自分がここにいていいという感覚、いるという確かな感覚。生きていることそのものの感覚と言い換えてもいい。生きている感覚が薄いのならば、愛されていることすらも当然感じにくくなる。人も信じられなくなる。これはけっこうな恐ろしいことだ。

かゆみを切る弊害はゼロではないだろうとは、うっすら思っていた。感覚を取り戻して初めて、その弊害がわかった。これは痛みとはまた別の、じわじわと命に関わるものといってもいいのかもしれない。


かゆみが私に訴えていたこと

胎児期に五感のうちで最初に働くのは触覚だ。生後に視覚が発達し、成長していく中で視聴覚的な記憶は圧倒的な量で触覚記憶を超えていく。大人になってからは、触覚よりも視聴覚の記憶の方が圧倒的に多いものらしい。これは一般的に言えることだ。だから、私ももしかしたら、かゆみを切ったからではなく、そもそも触覚的な記憶が成長と共に減っていっただけという可能性もある。

でも、思春期あんなにかゆみを体験していたことには、やっぱり理由があるんじゃないか。もしそうだとしたら、と仮置きして考えてみたい。そうじゃないと、なんか報われない気がするし!

推測だけど、思春期以降のかゆみは、愛情の記憶を私の脳に訴えていたんじゃないか。愛されていたことを思い出せ!と身体が脳に伝え続けていたんじゃないか。いろいろあって自分の存在価値を消していた私に、自分の存在をちゃんと認め、自分を取り戻すために、身体が「ここにいるよ」と言っていたんじゃないか。それが私の、かゆみの正体のような気がしている。


感覚が戻って1ヶ月半のいま

ここに書いたことは、本当にかすかで、証明も難しい話だ。あの時感覚を開けたのかどうかも本当のところはわからないし、もしかしたら妄想なのかもしれない。だけどその後本当に少しずつ少しずつ、本来ある感覚を取り戻している気がする。それは触覚を中心に、それ以外の感覚についても、なんとなくバグっていた部分が少しは正常化して、細かいものが感じ取れているような気がする。以前よりも表面的な音のその奥が聞こえ、見えるものの奥が少しだけ見えているかもしれない。

そしてこんなふうに答えのないことを考えるのは理論的ではないけれど、そこから自分の今後の人生を豊かにすることのきっかけにはなるんじゃないか。事実私は、あの「愛されていた肌感」が一気に戻ってきてからというもの、自分が地に足がついた感覚があって、自分の輪郭が少し濃くなったような気さえする。


必要のない感覚・感情なんて、きっとない

こういう話をすると、「実は私も…」という人がかなりいることがわかった。五感的な感覚よりは、「敏感で繊細なものを感じる感覚や直感に近いもの」を切ったという人が複数いた。それ以外には、「親に感じる切なさを切った」「好かれるという感覚を切った」「怒りは絶対に出せない」「本当の気持ちは言えない」など、感覚だけではなく感情も含めて色々な人がいた。原因はさまざまだけど「それを感じているとなんらかの苦しさに耐え切れないから」という共通点はあるようだった。

きっと全部の感覚も感情も、人間に必要だから備わっている。少なくとも五感と呼ばれる大事な感覚は切らない方がいいなんて当たり前すぎることだ。それを身をもって体験した。私が親の立場だったら間違いなく止めるだろう。だけどやっぱり、自分でやらないとわからないことがあると思うし、それ以外の方法を見つけられなかったあの頃の私をぎゅっと抱きしめてあげたい。今できるのは、それだけだ。

過去にもこの話をしたことは何度かある。いつも「感覚を切るなんて普通はできない」と驚かれる。これまで弊害がわからなかったので、あまり積極的にこの話はできなかったが、ひとつの帰結点がみえたので記事にした。決してマネをしないでほしいので、やり方をあえて詳細に書かなかった。かゆみや触覚についての一考察として読んでいただけたら幸いです。

そしてこの記事が
・自分の存在価値が低い/影が薄いと思っている人
・孤独感がある/愛を感じにくい人
の何かのヒントになれば嬉しいです。(シェアも大歓迎です)


繊細な感覚や感情からの気づきを深めるには

日々感じているちいさな感覚・感情・気づきは、毎日のタスクの中で一瞬で消えていってしまいます。そういうものを書き留めておいて、あとから振り返ることでその意味がつながっていくことがあります。ひとりでもできないことはないけれど、似たような感性を持つ方と語る時間があるとより有意義だと思います。

私自身は、こんな経験をしてきているからこそ、人間の存在とか、感覚感情とか、気づきを人生の豊かさに変えていくことに強く興味があります。そういう感覚・感情・気づきのお話をお伺いしていっしょに深めていくことは、私のライフワークでもあります。そんな対話セッション「可視トーク」では、本当の自分らしさに根ざした生き方や、人生を生き切っている感覚を得ていかれる方も多いです。詳細はこちらを読んでみてくださいね↓


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湯朝かりん|可視トーク/グラフィックレコーダー
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