雑感:末続プロジェクトの記録誌を作成中
末続プロジェクトの記録誌を作りたいと思い立って早3年。なんだかいろいろともたついてしまって、予定がすっかりのびのびになっていたのだけれど、ついにできあがりそうだ。
わが戦友ジャック・ロシャールと出した論文はあるのだけれど、これは学術誌にのった文章なので、一般には読みやすくはない。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhps/56/1/56_39/_pdf
住民の人たちの視点もいれて、もっとプロジェクトの全体が見える読み物にしたいなと思っていた。時間はかかったものの、プロジェクトの全体像が見える記録誌にできそうで、ほっとしている。誰でも見られる形でオンラインで入手できるように公開する予定にしてる。
本文を確認しながら、あらためて末続の事業をふりかえると、われながらよくここまでやったものだと感心する。国際的評価が高い、と先日書いたけれど、内容が充実しているというだけではなく、プロジェクトマネージメントとして非常によくできている。
末続のプロジェクトは、地域主体ではあるのだけれど、私は支援者というよりは、プロジェクトマネージャーであったという方が正確であるだろうと思う。
プロジェクトを推進するための交渉であったり、手配であったり、調整であったりをしてきた。末続側は末続側で交渉や調整をしていたので、プロジェクトでの役割に応じて、わずか数名の中心人物たちがそれぞれが八面六臂で交渉や手配や調整をしていたといえる。いまにして考えてみると、すさまじい数の交渉量であったし、よくやったと思うような、かなりのタフネゴシエーションも含まれていた。
末続の事業だけではなく、ダイアログ含めてだけれど、メールのやりとりだけで10,000通くらいにはなっていると思う。
(最近、気づいたのだけれど、女性の場合は、やった仕事をデフォルトで「軽く」評価されるので、私がここまでやっているとは思ってもみなかった人の方が多かったのかもしれない。)
それくらいのことをしなくては、なんの財政的基盤も組織的基盤もない小さなグループが、国際的に高い評価をされるほどの事業はできなかった。
なぜそこまで必死だったのか、自分でもわからなくなるときがある。
でも、たまに末続を訪れて、顔馴染みの人たちと話していると、思い出す。私は、自分の力で自分の暮らしを守ろうとする人たちが本当に好きだったのだ。
矛盾にあふれていて、ときおり身勝手でわがままで、打算的で、礼儀正しくて、でも優しくて、きれいごとは言わない。誰におもねるのでもなく、自分の力で自分の暮らしを立て直したい、そう願う人たちが、なによりもいとおしく、大好きだった。
末続の事業のテーマソングは、中原中也の「盲目の秋」だった。
片道50kmの道を運転しながら、頭の中で何度となくめぐらしていた。
自恃だけが人の行いを罪としない。彼らが、あるいは、私が、私たちが「誤って」いたとしても、そこに自恃があれば、それでよいのだ。
私は、自恃を頼みにする人が好きだ。それさえあれば、どれほど考え方が違っても、尊敬できる。
末続の記録誌には、いまだから公にできることも書いている。
放射線防護のリスクコミュニケーション、リスクマネジメント、リスクガバナンスの実践記録としても読めるし、地域主体の復興とはどういうことか、地域密着活動のマネジメントとは、そういう観点からも興味深い読み物になるのではないかと思う。
できたらお知らせするので、読んでいただけるとありがたい。
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