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エッセイ: Twitterのおもいで(5)・了

 2016年6月、福島民友新聞がひとつの記事を掲載した。
 福岡を拠点とするグリーンコープの震災応援販売企画が「東北5県」となっており(東北は6県)、福島県を意図的に外した「福島外し」、つまり福島を差別している、との内容だった。この記事は、社会に大きな反響を呼び、その後の福島のイメージや、報じられ方、復興政策へも多大な影響を与えることになった。
 ただ、それだけ大きな影響を与えたにもかかわらず、結論からいえば、この記事は、控えめに言って福島民友の「勇み足」、中立的に言えば「確認不足」、強く言えば「誤情報に基づく扇情報道」であった。

(元記事が見つからないので、当時のBuzzFeedのリンクを貼っておく。)

 グリーンコープ側の説明は、「東北5県」と表記したのは無神経であったが、この時の企画に福島の商品が用いられていなかったのは、たまたま適当な商品が見つからなかったためだ、というものだった。
 そして、その説明に嘘はなかったと思う。
 なぜならば、それ以前の企画では、福島の商品は取り扱われており、ネットで見つかる過去のカタログを見れば、その事実はすぐに確認できたからだ。にもかかわらず、グリーンコープを激しく糾弾し、福島は差別されている、との主張は、猛烈な勢いで広がり、止むことはなかった。
 数分でも検索の手間をかければ、事実ではないことがすぐに明らかになるようなお粗末な報道が、なぜここまで社会的な反響を呼んだのかは、今から振り返れば、当時の福島をめぐる世の中の論調の大きな変化があるよう思われる。

 その説明に入る前に、福島民友のグリーンコープに対する一連の報道は、グリーンコープ側が事実に反しており、名誉を毀損されたとして福島民友を提訴し、最高裁で、グリーンコープ全面勝訴、福島民友の報道は不正確なものであった、と認定されたという事実を確認しておきたい。
(以下にグリーンコープによる訴訟の経緯の説明がある。)

 2016年といえば、2011年の事故から5年が経過している。この頃には、原発事故による放射線についての測定体制はしっかりと整備され、細部では検討余地が残されてはいたものの、データは出揃い、かなりの状況が把握できる状況になっていた。
 その結果を要約すると、「福島の放射能被害は、当初予測されたよりもはるかに小さなもので済んだ」ということになるだろう。測定されたほぼすべてのデータが指し示すのは、過去のチェルノブイリ事故よりもはるかに被曝量は低く、また福島事故直後に推計された値よりも大きく下回るという事実だった。
 そして、こうした結果が明らかになるにつれ、どこか釈然としない空気感が少しずつ広まってきた。それはひと言でいえば「あの騒ぎはいったいなんだったのか?」というものであった気がする。

 事故直後の大混乱のなかで、福島はもはや人が住むことはできないのではないか、と言わんばかりの論調が世に満ち、また、多くの人々が福島から逃れた。その過程で、ほとんどすべての人が、大なり小なりなにかを失っている。仕事、家族、いくばくかの資産、友人関係、時間、など、その影響は生活全般に及んだ。
 避難先では、その日を境にして突然「被災者」になるという不条理(アイデンティティの混乱)を経験することになった。思いもしない心ない言葉を浴びせられた人もなかにはいた。
 福島県内にとどまった人にしても、混乱は同じで、放射能の状況に一喜一憂し、その対処とリスク認識をめぐり、人間関係には亀裂が入り、家族もその例外ではなかった。政府の施策が実行されるたびに、上から下をひっくり返すような騒ぎが繰り返され、また現実的な汚染と風評によって経済的な影響を大きく受けた人も多くいる。
 もし、放射能の被害がそこまで大きなものでなかったのなら、私たちが経験したこれらの混乱は、いったいなんだったというのだろうか?
 そんなフラストレーションを潜在的に抱えている人は、多くいたはずだ。

 政府が行なった避難指示については、さらに影響が甚大だった。避難指示解除は遅々として進まなかった。線量が比較的低かった避難指示解除準備区域においても、最初の自治体全域解除となったのは、楢葉町の2015年9月だ。だが、解除は行われたものの、帰還する動きはにぶく、2016年頃には帰還率の低さが問題として認識され始めていた。また、これと並行して、他の避難指示地域でも、家屋や居住環境の荒廃が進んでいることも問題として浮かび上がってきていた。
 避難指示が解除されたとしても、居住環境は、事故前と比べれば劇的に劣化することになるのではないか。もしかすると、自分たちは当初の混乱のなかで行ってきた判断のなかで、取り返しのつかないものを失いつつあるのではないか。そうした不安が、少なくとも被災地域の住民やその周辺の人たちの間には広がり初めていた。

 2016年は、事故からの時間をふりかえり、本当にこれでよかったのか、そんな疑問を抱き始める人が増えてきた、そんな時期だったように思う。

 そのときに、湧いて出たのが、このグリーンコープの騒動だった。
 明確に「誤報」と指摘されてもいい、これほどまでの不正確な記事が、その後の福島復興シーンを一変させるほどの社会的反響を持ったのは、人びとが、それを求めていたから、と考えるのが自然に思える。
 釈然としない思いや、自分たちはもしかすると取り返しのつかない選択をしてきてしまったのではないか、そんな不安に対して、人びとはてっとりばやい答えを求めた。つまり、結果としてみればさほど大きな被害ではなかった放射能に対して、私たちがここまで混乱をしたのは、それを扇動した人間がいたからだ、「風評」がすべて悪いのだ、と。
 あらゆる内省を停止し、責任を自分以外の外部に転嫁するこの回答は、東京五輪に向けて復興の雰囲気を盛り上げたい中央の風潮とあいまって、世に大いに受け入れられた。
 以降、福島をめぐって巻き起こるほぼすべての動きの中心には「風評」が置かれることになり、自分たちのそれまでの思考や行動にも見直すべき点があったのではないか、という内省の雰囲気は完全に消滅した。批判する側もされる側も、誰もが、他者を責め、自分は正しい行いをしてきたのだ、と強弁するようになった。

 私は、福島民友の第一報の時点で、すぐにグリーンコープが過去に福島の商品を扱っていた事実を確認していた。その後、グリーンコープの人たちが葛尾村のイベントに参加していたのを目撃したこともあって、この炎上騒ぎの空虚さを距離をとって眺めていた。
 そして、福島の事故後のシーンを一変させるものになるだろう、この炎上の意味を考えていた。

 そのときに嘆息混じりに私の脳裏を過ったのは、結局、人びとは、わかりやすい「犠牲者」を求めるし、また世の求める「犠牲者」になりたがるのだ、という答えだった。

 事故直後、世が福島に求めたのは、「放射能に怯える福島県民」であった。福島県内に居住する人は、「なぜ逃げないのか」としばしば尋ねられ、それへどう答えるべきか、困惑した。報道は、こぞって逃げ惑う人々を取り上げた。とりわけ、子供を連れ自主避難をした母親は、格好のマスコミの材料となり、それが原発事故の中心的な問題のひとつとして、政治的にも取り上げられ、大きく報道された。(このことが、その後、Twitterを中心に巻き起こった自主避難者へのバッシングへの導線にもなる。)

 放射能の被害が、当初予測されたものよりも少なかったと判明したのち、その風潮は裏返る。今度は、世が求めたのは「風評に苦しむ福島県民」だった。もちろん、風評の存在そのものを否定するわけではない。価格の低下や産品の拒否といった見紛えることのない「風評」は確かに存在はしたし、今もなお存在している。子供を守りたいと避難を行う母親が多くいたことが、紛れも無い事実であるのと同様に。
 だが、そうした現実における被害を発火点としつつも、世の求める犠牲者像は現実を置き去りにして、膨れあがる。事故直後に福島のすべての母親が避難を求めているかのように報じられたのとの裏返しに、今度は、あらゆるすべての被害が「風評」のせいであるかのように伝えられ始めた。やがて、自分こそは風評の被害者だ、とTwitterで名乗りをあげた人が「代表的犠牲者」としての地位と発言権を獲得することとなった。

 Twitterで激しく行われた自主避難者バッシングは、福島事故後の「代表的犠牲者像」の転換劇として解釈できるのかもしれない。
 事故直後の福島事故の「代表的犠牲者」は、母子自主避難者がその地位を得た。本人たちが望んだわけではないだろうけれど、世の多くの人の期待を汲み取って、マスコミが大きく取り上げることによって、そのように設定されてしまった。一方、そうでない立場の被災者のなかには、それに不満を抱く人もいた。避難者のことばかりが報じられ、県内の様子は報じられない、自分たちも県内で影響を受けているのに、との不満は、外部の眼差しにさらされるソーシャルメディアユーザー、特にTwitterユーザーのなかには顕著に見られた。また、県内での生活再建に奔走する県内在住者からも、避難者に偏重した県外報道のあり方への不満は根強く存在した。

 そうした不満の素地があるところにさらなる燃料を提供したのが、Twitterのアテンション・エコノミー原理だ。広く注目を集めれば、強い発言権を得、そのことを経済的利益に転換するこのメカニズムは、外部からの眼差しによって駆動される被害者像の争いに勝利し、支持を広く勝ち得たものが、「正当な犠牲者」=「代表的被害者」としての大きな力を得ることになる、といういびつな経済・権力原理を被災者・被災地のなかにもたらした。

 アテンション・エコノミーは、対立する立場を駆逐し、市場を占有したものが勝者として君臨することを可能とする。Twitterのような単純化された言論空間では、ニュアンス的な表現を用いる中間的な存在は、生き残ることは難しい。そこにあるのは、ゼロサム・ゲーム的な、どちらかが利益をえれば、どちらかが失う、というメカニズムだ。
 このメカニズムの結果、自主避難者と風評被害者の対立は決定的なものとなり、風評被害者が自主避難者を駆逐するという構造が、Twitter上で成立することになった。それは、2016年頃を境として、世の人びとが求める被害者像は、逃げ惑う母子ではなく、風評に苦しむ福島県民に姿を変え、「代表的被害者」像が置き換えられたことを大きな流れとして反映している、そんなふうに私は理解している。

 被害者・支援者をめぐるパワーパランスとポジショナリティの問題は、宮地尚子氏の『環状島』といったトラウマ精神医学や医療人類学の分野では提起されているが、原発事故もまたその例外ではない。
 原発事故は、もともとその社会的な衝撃の大きさゆえに世の注目を引きやすく、センセーショナルに報じられる傾向があるのに加えて、被害規模=かかわる人間の多さと、Twitterといったソーシャルメディアによって駆動されるメカニズムが状況をさらに複雑化・広範化したと考えられる。

 世情の注目を集める事件や事故の被害者となった人間は、常に他者からの「望ましい被害者であれ」とのプレッシャーにさらされ続ける。強い予見の上での自己像が、社会的にあらかじめ設定されており、何者でもない、という状態が許されないのだ。それは、自身のアイデンティティへ大きく影響を及ぼし、要請される「望ましい被害者像」に安住できない被害者は、他者の眼差しにさらされながら、自分はどのようにありたいのか、真に自分が望むことはなんなのか、くりかえし問い直さざるを得ない状況に直面することになる。

 そして、それに答えを出すには、長い時間と、強い精神力が必要とされるだろう。すべての人にそれが可能であるかといわれれば、おそらくそうではない。だが、この現実に向き合う先にしか、アイデンティティの安定的な構築はできない。

 ひとつはっきりしているのは、みずからはなにものでありたいのか、という問いに向き合うために、Twitter、現X は、まったく適切な場所ではない、ということだ。

 おそらく、福島民友のグリーンコープの記事を書いた記者も、Twitterのヘビー・ユーザーであったのだろう、と私は思っている。Twitterがなければ、あのような誤報を書くこともなく、まじめな使命感あふれる記者として仕事をし続けていたのではないか、と思う。

 福島事故からの12年間は、Twitterというプラットフォームの変遷とともにあったように感じている。Twitterが及ぼす社会への影響が、そのままダイレクトに福島の復興シーンにも流れ込んできた。もしTwitterというツールがなければ、どのような現在が広がっているのだろうか、と考えることもないわけではないけれど、その検証は、やがて、これまでとは違う観点からなされる時がくるのかもしれない。それまでに、ひとつの体験記として、私の経験を書き残しておくことにした。

 最後に追記として、前回の回顧に登場した、原発事故後の危険派のアクティブアカウントとしてTwitterで活躍していたAさんについて触れておきたい。いまではすっかりTwitterでは見かけなくなったその人は、その人なりの納得のいくやり方で放射能安全論争に決着をつけ、Twitterからさっぱり足を洗って、充実した日々を送っているそうだ。
 その決着のつけ方は、信頼のおける専門家の指導を受けた上で、学術論文として自分の考えをまとめて発表するというもので、アカデミアに属さない人とっては多大な努力を必要とする、立派なものだった。(ちなみに、指導にあたった専門家も私もよく知るとても信頼のおける人だ。)
 Twitterという空間から抜けさえすれば、こんな建設的な決着のつけ方もあることを示してくれたことに、敬意を示すとともに感謝したい。


 Twitter(現X)の現在のアカウントは、広報用アカウントとして残しておきますが、今後はほとんど覗くことはないと思います。DMについては特に、セキュリティ上の不安があるため、私へご用のある際は、メール ethos.fukushima@gmail.com か、Messenger 、あるいはNPOサイトの問い合わせフォーム https://fukushima-dialogue.jp/ からお知らせください。


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