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雑感:美容院での喫水線をめぐる会話

 年齢を尋ねると、彼は28歳だと答えた。
 10席ほどの椅子と鏡が並べられた店内は、ひととおり席は埋まっているものの、高い天井と全面ガラス張りになった壁のおかげで、混み合っている感じはしない。それでも、パーティションで区切られているとはいえ、耳をすこしそばだてれば、臨席の会話はまる聞こえだ。そんなことはおかまいなしに、彼は話し続ける。

 だって、ちょっと関係あるとかじゃないですよ、もうあの人たちズブズブじゃないですか。信じられないですよね。日本の中心の人たちがあんなズブズブになっちゃってて、統一協会って、あの悪徳霊感商法の元祖でしょう?国の中心の人たちが犯罪者とつるんでた、みたいな話じゃないですか。しかもみんなして。

 国葬だって、まぁするにしても、ちゃんと議会で議論しなきゃダメじゃないですか。イギリスは違うんですよ。あっちはちゃんと議会とおしてますから。

 ほら、あの人たち、あと3年選挙ないから、適当に対応して誤魔化すつもりなんでしょう。3年間、また高齢者が上に居座って絶対に変えないつもりなんでしょうから、これから3年間の日本、もっと悪くなるなと思ってて。自分さえよけりゃいいんですから、あの人たち。

 物価あがってますし、給料はあがらないし。20年間あがってないどころか、むしろ下がってるんですから。これから日本は格差もどんどん広がってちゃうんだろうな。外国語できる人は、海外行った方がいいってみんな言ってますよね。

 目を丸くしながら、わたしは相槌を打っていた。コロナの話題のついでに、「最近はニュース見ても悪い話ばかりで、いやになっちゃいますよね」と軽く振っただけのつもりだった。美容院でのいつもの世間話だ。

 「床屋政談」とはいうけれど、美容院で政治の話になることは、まずない。これまでの人生のなかで、美容院で政治の話をする美容師さんに会ったことがない。あったとしても、たとえば、小渕首相が現役で亡くなったときにびっくりした、とかその程度のものだった。美容院での話題はあたりさわりなく、互いが不快にならない程度の話題、というのが暗黙の了解だ。

 だというのに、堰を切った彼の話はやむことがない。ハサミを持つ手をときに止めながら「経済のこととかも勉強してるんですけど、勉強したら、まじやばいすよ、この国」と言って、息を吐いた。

 パンデミック以降、それ以前に通っていた美容院に行きづらくなってしまったこともあって、店を転々としている。美容院での会話を嫌う人も多いようだけれど、普段の日常圏では接しない人たちの感覚がわかって、それはそれで楽しいものだ。わたしくらいの世代になると、美容師さんも、自分よりも若い世代が多くなってくる。下の世代はどんな感覚なのか、知ることができる貴重な機会でもある。

 ここ一年ほど、何人かの若い世代の美容師さんと話して感じていたのは「危険水域をとっくに超えてしまったな」ということだった。誰も、夢や希望を語らない。感じよく対応する言葉の裏側に、疲れと鬱屈と不満と諦めとが渦巻いているのが見て取れた。なにかにすがるように、渦巻いた不満が溢れないようにぎりぎり抑えているように見えるけれど、ほんとうは、もうとっくに危険水域を越えているのではないか。ただ、本人たちがそのことに気づいていないだけで。

 推測するに、彼は、安倍首相銃殺があって統一教会との関係が騒がれはじめて初めて、この国の政治について検索してみたのではないだろうか。いろいろ調べてみると、もしかすると親近感さえ持っていた元首相は、どす黒いネットワークの中心にいて、政治家は腐敗し、政治も経済もめちゃくちゃで信じられない状況であることがわかった。どうりでどれだけがんばっても自分の暮らし向きは上向かないはずだ。
 デジタルネイティブ世代は、知らないことでも検索をかけて情報を見つけ出すのはとても早い。彼の高揚した語り口は、自分の知った重大な事実を誰かに伝えたい、という思いからくる饒舌さであったのだろう、という気がする。

 新事実を発見したという高揚感が冷めたとき、彼の心にはなにが残るのだろうか。憤りだろうか。絶望だろうか。不信だろうか。「裏切られた」という思いは、心に深く残る。安倍氏が彼らに対して犯した背信、背徳の代償は小さなものではないだろう。ぎりぎり喫水線が危険水域を超えないよう保っていた彼らに、そのときなにが起きるのだろうか。そんなことを考えながら鏡に映る彼を眺めていた。

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