お知らせと雑感:ユリイカ2022年7月号「特集*スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ」に寄稿しました
既に発売になっている青土社の『ユリイカ』に寄稿しました。
アレクシェーヴィチの『チェルノブイリの祈り』と私が原発事故後に測定の活動をしてきたことについて自由にエッセイに書いてほしいというご依頼でしたので、そういう内容になっています。
著書の『海を撃つ』に書いた内容とかぶってはいますが、時間が経過したぶん感じることが少し違ってきたという点、そしてアレクシェーヴィチの『チェルノブイリの祈り』に共感すると同時に、そこはかとなく覚える反発についても書けたかなと思っています。
今回のユリイカのアレクシエーヴィチ特集は、とても充実した内容だと思いますので、ぜひお手元に一冊置いてくださいませ。まだ全部は読めていませんが、わたしもとても勉強になっています。アレクシエーヴィチについてこんなに濃い内容を書ける人たちが日本にこれだけいるんだというのも、とてもうれしいです。
読んだ中で、あ、と思ったのは、奈倉有里さんの論考で、アレクシエーヴィチの著書のなかでの引用の不適切さについて指摘されていることでした。『セカンドハンドの時代』を読んでいたときだったか、わたしも引用について怪訝に思った記憶があり(そもそも引用が必要ないんじゃ?という唐突感)、「アレクシエーヴィチは文学の人ではないからな、しかたないか(でもそれなら入れなきゃいいのに)」と自分を納得させたのでした。やはり引用のいけてなさは指摘されているんだ、と得心のいったところでした。
閑話休題。
放送大学の大学院でリスク学とその近縁分野について学んでいるのですが、学べば学ぶほど、2015年以降顕著になっている、福島の復興方針の時代錯誤の逆走ぶりにめまいがしてきています。おおもとの指針のところから錯誤的であったのはまちがいないのでしょうが、巨額の復興予算が錯誤のとんでもない次元で歯止めの効かないものにしてしまい、そこにコロナによる鎖国政策で閉鎖した人間関係で物事が決められていくことになったことも加わり、おおよそありえない次元でありえないレベルの施策が展開されることになったように見えます。
2011年に東日本大震災と原発事故対応の巨額の復興予算が日本の統治機構における財政規律を破綻させてしまったのではないか、と最近は強く感じていて、それが端的にあらわれているのが天文学的な金額が注ぎ込まれた福島復興界隈であろうかと思います。こうしたゆるみきった財政規律は、人間の道徳心を破壊します。お金が出てくる蛇口方面にすり寄れば、湯水のような金を労せずして得られるという感覚が為政者レベルに浸透し、それがやがて地域のアクターや地域の動き全域に染み渡っていくという、財政規律破綻のトリクルダウンが起きているのが現在の福島復興現場だと思います。
これでもっともまずいのは、なにかあっても自分たちでやりくりして自律的に対処していこうという動きが抑圧され、他力依存のマインドが行き渡ってしまうことだろうと思います。人間というのは安きに流れるのが性質ですから、楽な方へ楽な方へと進み、結果的に、活力のある動きは起こりにくくなり、依存構造ばかりが強化されていくことになります。
秋の県知事選に向けて、依存構造はいっそう強化されていくことになるのだろうと思いますが(県政の方達は国への依存を強めることこそが復興だと思っているので)、避難区域問題廃炉問題などの直接的な原発事故の影響はもとより、こちらの活力の失われた他力依存構造となった地域を立て直すことのほうが長期的にはしんどいことになるだろう、と思います。
自主避難している人たちが、避難先で自分の力で生き生きと新しい前向きな動きをしている話をしているのを聞くと考え込む今日この頃です。