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エッセイ:Twitterのおもいで(2)

 2014年、反原発活動家の女性を侮辱罪で刑事告訴した。先に、首都圏反原発連合のエートス支持表明によってデマの拡散は勢いを失った、と書いたが、燃え広がる速度が沈静化したというだけであって、いちど広がったデマは消え去らなかったし、それを信じる人も多く残されたままだった。なかでも、沖縄に在住していた反原発活動家による事実無根の発信は数年にわたってしつこく続き、その過激な発言によってフォロワー数も増やしていたため、影響も大きかった。

 誹謗中傷に対する、私の態度は一貫して無視だった。彼らにとって気に触る内容だったらしい書き込みをした時には、メンション欄が誤解と敵意に満ちた書き込みで埋まることも少なからずあったのだけれど(当時はミュート機能もなかった)、一切無視していたので、私のtweetだけを見ていた人は炎上していることさえ気づかなかったのではないかと思う。それくらい、徹底して無視していた。だが、表面に出さなかっただけで、状況はしつこく確認していたので、Twitterやオンライン上で誰と誰がどういうタイミングでなにを言っていたかは詳細に把握していた。(先手をとって対策を考えておく自己防衛の必要のため。)

 無視戦略が可能であったのは、流布されたデマの内容があまりに荒唐無稽に過ぎ、地元で信じる人がほとんどいなかった、ということも挙げられる。当時、Twitterの社会的影響力は大きく増していたけれど、その後「社会インフラ」と呼ばれるほどの普及はしておらず、Twitterで情報を収集していた層は限られていた、ということもある。地元でも反原発運動に深くコミットしている何人かの友人・知人がデマを信じて、私との関係を断つといったことがあるといえばあったけれども、現実への波及はほとんどなかった。

 にもかかわらず、刑事告訴に踏み切ったのは、刑事告訴する相手となった活動家が、実際には私たちの活動に直接関与しているわけではない特定の実在の人物の名前を挙げて、その人たちがエートスの活動を主導していると喧伝し、職場などに電話で抗議するように呼びかけていたことが理由だった。(俗に言う、電凸) この呼びかけに呼応して、実際に、名前を挙げられた人の職場には、頻々に意味不明の、そのうえ長時間相手を難詰するような電話がかかってきている、という話を聞き、看過できなくなったという事情だ。

 警察に侮辱罪での刑事告訴を受理してもらうことは、当時は稀だったので、よほど特殊な手立てを使ったのかと思われるかもしれないが、弁護士を頼んだわけでもないし、裏ルートがあったわけでもない。まず、福島県警のウェブサイトでサイバー犯罪対策課の問い合わせ先を見つけてそこにコンタクトをとり、最寄りの警察署の生活安全課に相談に行くように指示され、それに従ってアポをとった。

 一度目の生活安全課の刑事との面談では、「ネット上の個人間の係争を警察に持ってこられてもねえ」という対応だった。二回目に証拠書類を用意して持っていくことにはなったが、さてこれはどうしたものかと思った。

 まずは、個人間の係争ではない、と理解してもらうことが重要だが、断片的なTwitterの書き込み記録だけでは、全容を理解してもらうことは不可能だろう、ということで、事実経過を記した文書を作成した。主観は可能な限り排して、淡々と事実経過のみを記した。ここで、私がこれまでの攻撃的な書き込みに対して一切反応を示していないことは、個人間の係争ではなく、一方的な加害であることを示すために、とても重要な要件だった。文書を作成して持っていったことはとても効果的だったようで、実際に告訴が受理される際に調書には、私の作成したこの文書がほとんどそのまま使われていた。警察にしてみれば、時間のかかる事情聴取と調書作成の手間がなくなった、ということだろう。

 もうひとつ、受理してもらうために効果的だったことがある。当時、私の活動を親身に支えてくれていた友人がいた。たまたま彼女の友人が、他県の県警サイバー対策課に勤務しており、その人に問い合わせてくれたのだ。福島は田舎であるため、サイバー対策課があったといっても、県警内でオンライン犯罪の対応の重要性を認識できている人は多くいるような雰囲気ではなかった。友人の知り合いは、より対策の進んだ都市部のサイバー対策課であったため、すぐにオンラインの状況を確認し、事情を確認した上で、これは立件相当の事案ではないか、との返事をくれたそうだ。二回目の面談の際には、そのことも伝えた。すると、担当課の刑事が目の色を変えて、「立件相当だと〇〇県警のサイバー対策課が言っていたんですね」と念押しされた。警察の横並び意識というか、対抗意識が刺激されたのかもしれない。

 私の刑事告訴が受理されたのは、この二つが大きな理由だと思っている。それ以上は、特別なことはなにもしていない。顛末の結論からいうと、侮辱罪でいわき地検まで送検となったが、初犯であり前科もないということで、不起訴となった。

 刑事告訴が受理されると、警察だけではなく、検察でも事情聴取を受ける。担当検事も、初めての事例ということで困惑気味だったが、確かにひどい状況である、ということで、捜査は進めてくれた。とはいっても、所詮「侮辱罪」である。容疑者の取り調べも任意だ。いわき地検までの出頭は容疑者が拒否し、検事が沖縄まで出向いて任意で事情聴取することとなった。

 その模様まで、容疑者はTwitterで中継し、Twitter上は「国家権力の不当な言論弾圧が始まった!」と大騒ぎである。担当した検事も、名前まで書かれるし、警察署や地検にまで抗議の電話がかかってくる騒ぎとなったようだった。もちろん刑事告訴をした私への批判もすさまじいものがあった。国家権力を動員して言論弾圧をする悪の手先、ということである。

 ただ、事態が進行系のあいだの炎上はある程度想定していた。時間が経過し少し頭が冷えてきたら、オンライン上の発言によって刑事罪に問われ、取り調べされることもある、という現実を理解し、その後の不確かな発信が鎮静する効果を期待していたが、おおむねそのようになったとの印象を抱いている。これにより、多少理性の働く人間は、発言に注意を払うようになったと思っているし、それが私が、民事ではなく、刑事告訴を行った理由だった。

 私がこの経験によって得た教訓と感想は、おそらく、多くの人が想像するのとは異なるだろうと思う。

 ひとつめは、ソーシャルメディア上の係争を、刑事であれ民事であれ、司法制度に委ねることの社会的不当性だ。刑事の場合は特にそうだ。自分の事案の捜査を見ていて気づいたのは、警察も検察も役所なのだな、ということだった。つまり、業務内容は法的に規定されているのと同時に、予算の制約がある。どれほど犯罪が多発しようとも、予算を超えた捜査はできないのだ。私の場合は、担当検事がいわきから沖縄まで取り調べに足を運んでいる。そのコストを考えてみれば、侮辱罪という量刑的には微罪に対してかかる捜査コストが、あまりに高すぎる。もちろん、数が少なければ対応のしようはあるだろうが、Twitter上では、こうした事案が多発していた。これらがすべて司法の操作に流れ込めばどうなるか。対応できないのは、火を見るよりも明らかである。

 自分が告訴をしておいてこういうのもなんだが、刑事司法に対応を委ねるのは、そのコストを考えれば非現実的だ。ソーシャルメディア上で起こる紛争については、事業者であるプラットフォームが対応を行うべきだ、というのが私の結論だった。

 TwitterをはじめとするBigTechを中心としたIT業界のイノベーターたちは、プラットフォーム上で起きる社会的な係争を、既存の社会システムに丸投げすることを当然のことのように思っていた。刑事告訴に至るまでに、Twitter社には、事実無根の書き込みに対して対応を取るように何度か要請している。英語のできる友人が、Twitter本社へ英語で書いて送ってくれたが、その対応は「お互いに勝手にやってよ。自分ら関係ないし」と言わんばかりののらりくらりの無責任なもので、なんらかの対応をとる気配はまったくみられなかった。必要なら、勝手に法律に訴えて、というのが彼らの基本的な姿勢であることは察せられた。

 だが、上に書いたように、司法システムも無料で維持されているわけではない。そこには税金が投下され、社会がコストを負担しているのだ。Twitterというプラットフォームが、これまでに存在しなかった紛争状況を社会にもたらしているのは明らかだ。そこにかかるコストをすべて社会に丸投げするのは、本来、プラットフォームが事業者として負担すべきコストを、社会に転嫁しているという事態にほかならない。
 そうして社会に負担を転嫁することに成功したTwitter社はコストを節約し、その利益は、シリコンバレーで優雅な生活を送る従業員や創業者に配分されることになる。一方、本来Twitter社が負うべきであるコストを転嫁された社会サービスは、税金によって支えられている公共サービスだ。それらは恵まれていない人に対しても平等に提供される、再分配機能を持つ社会サービスだ。ここに新たな負担がかかるということは、そのぶん再分配機能が弱められるということでもある。

 Twitterというプラットフォームのビジネスモデルは、根本的に、社会全体で負担して維持している社会の公共財を掠め取り、プラットフォーマーたちが利益を得るという不正な収益構造を前提としており、社会的に容認されるべきものではないのではないか、というのが私の得た感想だった。一連の刑事告訴を経て、私はTwitter社をはじめとするプラットフォーム事業者に対しては、より批判的な見方をするようになった。

 さらにいうとすると、根本的に、公共財をくすね取り自らの利益に変換する非道徳性を規範とするTwitterにおいて、その後、アテンションエコノミーを通じて、ただ注目を集めさえすれば勝者である、という価値観が支配的になっていくのは、自然の成り行きであったように思う。
 私は、Twitterを長く使っている人たちの、倫理意識が徐々に薄れていく傾向が以前から気になっているのだが、それも、Twitterというプラットフォームが本来的に持っている破綻した倫理意識が呼び寄せる帰結である、という感覚を抱いている。

 この刑事告訴には、さらなる後日譚と私が得た別の教訓もあるので、それは稿をまた改めて書く。

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