雑感:情動の思考
フランスの哲学者ドゥルーズの著書のなかに『情動の思考』という小著がある。よく知られているフェリックス・ガタリとの共著ではなく、ファニー・ドゥルーズ、ジル・ドゥルーズの共著となっていて、夫婦の共著であるようだ。(詳細は知らない/覚えていない。)
私がこの本を読んだのは、学生時代だった。その厚みだけで圧倒され、中身も暗号文を解読するかのように読み解かなければなにが書いてあるのかさっぱりわからないドゥルーズの主著に比べれば、びっくりするくらい普通の言葉で書かれていて、とても読みやすく、また、装丁もよかったのだろう、こじんまりとした品のよい内容は読みやすく、とても印象に残っている。現在は絶版のようだけれど、当時の装丁のまま再販されたら、新しく買い直したいと思う一冊だ。(自宅に一冊あるのはあるけれど、だいぶ汚れてしまっている。)
肝心の内容はというと、副題に「ロレンスのアポリカプス論を読む」とあるように、有名なロレンスの『アポリカプス論』についての内容であったはずだけれど、あまりよく覚えていない。当時、ロレンスの『アポリカプス論』を読んでおもしろかったので、興味を引かれてこちらの本も手にとったのだろうと思う。
ほとんど覚えていないにもかかわらず、ただひとつだけ、「おのれを流れとして生きること」というフレーズは心に残って、何度となく思い出している。私の本の読み方は万事こういう感じで、(しばしばおそらく文脈とは切り離されて)記憶に刻み付けられた一節やフレーズを、折に触れて何度となく思い出しては反芻し、ああこれはこういうことだったか、いやこういうことだったのだ、と何十年にもわたってこねくりまわすという次第だ。
最近、これを思い出したのは、人びとの情動のうねりについて考えることが増えたからだ。これまでの歴史記述や社会把握のなかでは重んじられることがなかった人びとの情動のうねりが噴出し、それが激流となって世界を揺り動かし、社会構造を大きく揺るがすようになっている現在、私たちは、この情動にどう処していくべきなのだろうか。そんなことを考えているときに、この本のタイトルを思い出したのだった。ロレンスはなんと言っていただろうか、あるいはドゥルーズ夫妻は、もういちど読み起こしてみてもいいかもしれない、と思っている。
社会心理学の考え方の中に「ヒューリスティック」というものがある。人間の直観的な世界認識のありかたを言う。いわく、人間は論理よりも感情や経験にもとづいて事態(リスク)を把握することが圧倒的に多い。あたりまえといえばあたりまえなのだけれど、これが学問領野のなかには十分に反映されているようには思えないのが不思議なところではある。
情動、感情というのは、私たちの認識をしばしば「誤らせる」。けれど、「誤る」とはどういう事態なのだろうか。なにをもってそれが誤っているとするのだろうか。それを「誤っている」という判断基準となっている前提が、そもそも適切であるといえるのだろうか。こんなふうに考えるのは、わたし自身が、情動に基づいて判断しているという自覚があるからだ。
わたしの文章を読んでいる人は、わたしがかなり理屈っぽい人間であることは察せられているのではないかと思う。確かに、論理的に筋が通らないことはがまんならない。ところが一方で、同時にそんなことはどうでもいい、とも思っている。論理と筋で詰めるだけぎりぎりまで詰めるけれど、いちばん最後の判断は情動で行うし、それによってそれまでの論理と筋がすべてひっくり返ることになってもいい。
最終的にその時々の人間の判断の正統性を担保するのは、情動でしかないのだから。
情動はしばしば、あらゆる論理的な判断をくつがえし、それを焼き尽くすような破壊的なものとなる。けれど、それに基づかない世界は、空疎だし、味気ないし、人間らしくもない。人間らしさとはなんなのか、考えてみるのもいいかもしれない。
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