ニュース✓:核廃棄物最終処分場問題、対話は世界を救いうるのか
昨日から気温があがりはじめて、ようやく春の訪れを実感できました。今年の冬は長く厳しく、これほど春を待ち望んだことは長くなかったように思います。
1億2千万人の後始末が、人口700名の村の判断にかかる
核廃棄物の最終処分場問題のような、「後始末」問題は国民的関心がひどく薄いものですが、日本のように都合の悪いことは見ないで他人に押しつけるカルチャーが優勢のところではなおさらです。
北海道の小さな自治体がいま、核廃棄物の最終処分場建設のための第一段階調査に立候補し、話題になっています。その村長選挙が行われたとのこと。先だって、もうひとつの手を挙げている自治体寿都町でも選挙が行われ、現職が勝利しました。
昨日は神恵内村で行われましたが、有権者はわずか700名とのこと。
最終処分場建設に立候補した理由は、国からつけられる予算です。過疎の著しい村にとってみれば、生き残りのために藁をも掴む思いなのでしょう。
ただ、国策として進められてきた原子力政策の後始末が、こうしたきわめて人口の少ない過疎地の判断に押しつけられることは、日本という国の歪さを感じずにはいられません。
もうひとつ、復興予算が湯水のように注がれる10年間を見てきて思うのは、予算の蛇口がひとつだけになってしまうと、誰もが口をつぐみ、予算でもとの顔色だけを覗う、とても風通しの悪い地域になってしまうということです。
そうならないための制度上の工夫は可能だと思うのですが、結局、予算を握る人たちは、ひとたび自分の手元に権限が来ると、自分の裁量権を手放したくなくなり、決定権を独占してしまいます。身に沿わない権限を手にしたときに、人間は瞬時に豹変します。どれほど高潔に見える人であったとしても。
これらの地域が、そうならないことを心から願います。
対話は世界を救いうるのか
私が原発事故のあとずっと行ってきたのは、一般的に説明するならば、「対話に基づくリスク・コミュニケーション」に分類されます。
長年「対話」にかかわっていると、それがあまりに気軽に濫用されるきらいがあるのは気になります。
対話は、平穏を維持するために欠くべからざるものですが、大きな制約があります。
ひとつめは、本人が話し合う気にならなければ、対話はできない。
これは当たり前のことなのですが、厳然たる事実です。意見が対立しているときに「対話」をするにしても、双方が罵り合うつもりしかなければ、対話になるわけがありません。相手の意見にわずかでも耳を傾ける状況を生みだす、場のセッティングも含めて「対話」です。
ふたつめは、共有できる論理・価値がわずかでもなければ対話は不可能、ということです。
論理と価値が並列されているのは、対話は言語に基づいてなされる以上、どのような論理構造に基づくかがきわめて重要になるからです。論理構造なき言語コミュニケーションは存在しません。その論理構造は、価値観とまったく同一といえないにせよ、かなり反映したものになります。
そういう意味で、今月冒頭に出された中露共同声明の文章は、非常に衝撃的なものでした。長い文章のなかで、なにがもっとも衝撃であったかというと、その内容は、自由と多様性を尊重する民主主義の論理構造をそのまま用いながら、まったく別のことを語っているからです。文言だけを見れば、〈西側〉の声明かと見まがうような内容です。先ほどの北京五輪でも、自由と多様性の価値を高らかに歌い上げた開会式でした。
その内実との乖離は、論理構造、言語の無力化としかいいようがなく、全身が脱力していく感を覚えざるを得ませんでした。
そうした論理構造の無力化、論理の倒錯は、ウクライナ侵攻のプーチンの声明にも如実にあらわれていました。The Guardian に載っていたプーチンの主張を分析する記事です。
ウクライナの「非ナチ化」のために侵攻するという主張は、ウクライナのゼレンスキー大統領自身がユダヤ系であり、家族もホロコーストで失っている人であることから、ばかげた主張だと言われていますが、上記の分析では、プーチンのその主張は、国内の支持者(キリスト教右派)に向けられたものであり、彼らの論理のなかでは、ナチの「真の被害者」はユダヤ人ではなく、キリスト教徒であることになっているので、まったく矛盾していない、と書かれています。
リンクがすぐに出てこないのですが、以前に見たDWのドキュメンタリーでも、プーチンとキリスト教右派とのつながりは取り上げられていて、近年、ロシアではプーチンの後押しでロシア正教の教会が多数再建されており、市民の公園が次々に教会となっているとのことでした。それに抗議する市民に対しては、武装勢力に近い集団から脅迫が相次ぎ、身の危険を覚える状況になっているとのことでした。
こうした論理の倒錯と論理構造の無力化は、アーレントの『全体主義の構造』のなかで、全体主義の大きな特徴として描かれていたところです。読んだときには、なるほどと思いつつ、ピンと来なかったところもあるのですが、現前している状況を見ると、あらゆる対話を無効にする、きわめて危険なものであることを実感します。
「空は青いです」とお互いに言いながらも、片側は、土砂降りの曇天を見ながら、それを平然と繰り返して、まわりもそれに同調し始めたらどうなるでしょうか。そこで、おおよそ会話というものは成立しません。やがて、空は青い、というものが異常だと指弾され、弾圧されるようになる。いま起きているのは、そういうことなのだろうと思います。これは、アーレントの定義する正確な意味での全体主義の再来であるように思えます。
言語での対話が無効とされた後には、力による解決しか存在しません。アーレントの考察では、敵なくして存在し得ない全体主義は膨張の果てに破綻することが宿命づけられていますが、それまでのあいだにどれほどの暴力が行使されるのかと考えると、暗い気分になります。
全体主義との闘いは、「言葉をめぐる闘い」でもあるのだろうと思います。論理構造を無価値なものとしないこと、言葉を意味あるものにし続けること、それはもうひとつの闘いなのだと思います。