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ひなまつりと中間子シンドローム
私は星座占い信じていない。姉・私・弟、きょうだい全員が、同じ星座だからだ。3人、運命共同体でたまるか、と思っている。
血液型占いも信じていない。きょうだい全員、違う血液型だけど、本人の血液型以外の特徴や気質を、それぞれが持っているからだ。
そんなわけで、星座や血液型などの生まれながらの属性で、人の性格や運命を分類するなんて無理に決まっている、と思っている。
でもひとつだけ、これは一理あるんじゃないかと思うのが、「生まれ順」だ。長子、末子、一人っ子。そして、私のような中間子。きょうだいの並びの中で、どこに位置するか。この分類法による性格分析だけは、うなずかざるを得ないことが多く、くやしいけれど、けっこう信じている。
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中間子とは、上にも下にもきょうだいがいる人のことを指す。真ん中っ子、ともいう。
中間子の特徴をネットで検索すると、次のような要素があがってくる。
・協調性、柔軟性、適応力がある
・人付き合いにおいて、バランス感覚がある
・要領がいい
・コミュニケーション能力がある
・独立心が強い
・目立ちたがり
・嫉妬深い
・負けず嫌い
・さみしがり
・繊細
・甘えたがり
協調性や要領の良さなど、人間関係をきずいたり、場を良い感じにやりすごす能力には長けている。だが内心では「私を見て!」「私が一番!」「私は私!」と自我強め。そのくせ独りを恐れ、傷つきやすい。
めんどくせー。
ちなみに「中間子」をGoogleで検索してみると、予測ワードに「性格悪い」と出る。非常に心外だ。しかし、思い当たる節しかない。
私は自分の性格を問われたら「陽キャ風な陰キャ」と説明することにしている。「一見社交的で人付き合いに悩みのない人間に見えて、実はごちゃごちゃ考え、うじうじしがち」なのは、「中間子の特徴」を色濃くもっているせいではないか、と思わずにはいられない。
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中間子の性格が「悪い」のは、「親の愛情が他のきょうだいより不足しがち」だかららしい。親は長子や末子に気をとられ、中間子の相手をするのをうっかり後回しにしてしまうのだという。
私の親は比較的きょうだい3人を「生まれ順」にあてはめず、扱いにも差をつけずに接してくれていたと思う。私は「妹」であり「姉」であるが、「お姉ちゃんの言うことを聞きなさい」とか「お姉ちゃんなんだからちゃんとしなさい」などと言われた記憶はない。姉も弟も、そうやってしつけられてはいなかった。
それでも、私の性格が「悪く」なったのは、中間子であったことが影響している自覚はある。
姉と弟が生まれたとき、親戚を集めて結構ちゃんとした祝いの席が設けられた。しかし私のときはなかった。初孫と長男に祝いの席があって、次女にはないのはひと昔前の田舎では当たり前のことだ。
だから、このことを知ったときも「へー」としか思わなかった。しかし数年後、何気なく友人にこの話をしようとしたら、涙がとめどなく溢れてきた。そのとき、私は「自分はきょうだいの中で、いちばん価値のない存在だ」と気にし、傷ついているらしい、と初めて気付いた。
長子は期待やプレッシャーをかけられ大変だと言うけれど、少なくとも2番目が生まれるまでの間は、親を独占している。初めての子どもとして、丁重に扱われたことだろう。
末子は生まれた瞬間から、家族の中で最もか弱き存在でい続ける。何をするにも「いちばん幼い」がゆえに可愛がられ、目をかけられ、許されることが多い。
中間子はそのはざまで、存在を忘れられがちだ。主張しなければ、親は自分を見てくれない。だから、目立ちたがり屋になる。
しかしやっとのことで親が自分を見てくれても、その関心はすぐ、長子か末子に移ってしまう。拗ねる。嫉妬する。負けまいと頑張る。
でもだんだん、頑張るのがめんどくさくなる。どうせ見てくれない。親の一番にはなれないと悟る。
だから一人、好き勝手に生き始める。目立とうとしてやっていたことを、次第に「一人でも大丈夫でいるため」にやるようになる。見てもらえないさみしさを外の世界でのつながりで癒やそうと、家族というコミュニティからイチ抜けする。少なくとも私は、好きで独立心が強くなったわけではない。
上にも下にもきょうだいがいて、正反対の役割を担い分けてきたこと、親の関心を引こうと感情や好みやタイミングを見極め続けてきたことなどから、人付き合いの要点を自然と押さえられる。「ふつう」のコミュニケーションをとるのに、苦労はしない。だから明るい人間に見える。人間関係に悩んでいるようには見えない。
でも本当にほしい愛情は不足している。頑張っても満たされないと諦めて外の世界に出て、それなりにうまくやれていても、やっぱり、本当にほしかった「親の愛」が足りない。承認欲求が満たされない。だから、心にはいつもさみしさがあり、無条件に愛してくれる人に甘えたい。
長子が自分はがんじがらめだと嘆くのを見て、親に目をかけてもらえるだけいいじゃないかと羨む。末子が何をしても、あるいは、何もしていなくても、存在を受け入れてもらえているのを見て、生きてるだけで愛されていいねとふてくされる。
こちとら、頑張らないと見てもらえないんだぞ。
いや、頑張っても見てもらえないんだぞ。
だからもう、一人で勝手にやらせてもらうわ。じゃーね。
そんなひねくれ、こじれた、めんどくさい感情を原動力に、自分のやりたいように、生きていこうとする。
皮肉や弱音を吐きつつも、一人で頑張ることを選びがちなのは、中間子として育ちながら身に付けた、自分なりの処世術なんじゃないかとさえ思う。
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「中間子は特別、親の愛情を受けていない。だからいちばん可哀そうなんだ、配慮しろ!」と言いたいわけではない。
そもそも親の愛情に満足できている人なんて、どれくらいいるだろう。生まれ順に関係なく、親の愛をもとめる気持ちをこじらせている人はたくさんいると思う。
私はいま時点で、親からの愛情に飢えている感覚は、ほぼない。
それは、自分でみつけたパートナーとの間の愛に満足していることと、親から与えてもらった愛は確かにあったと自覚できているからだ。
私は3つの段階を経て、親の愛を自覚した。
ひとつめは、親が猫を飼い始めたとき。
猫を溺愛し、甲斐甲斐しく世話をする親を見て、彼らの愛情表現を初めて客観的に見た。かわいい、いとしいを恥じらいもなく表現する様子に、私は驚いた。
ふたつめは、私が結婚したとき。
結婚披露宴用のムービーをつくるために、幼い頃の写真を見返した。日に焼けた分厚いアルバムが何冊もあった。私のためのアルバムだ。誕生祝いの宴の席はなかったけど、写真は姉や弟と同じだけの量があった。母親にひしと抱かれたちっちゃい自分を見て、確かに愛されてはいたんだな、と思った。
みっつめは、姪が生まれたとき。
ついにリアルで、人間の世話をしている親の姿を見た。とんでもない猫可愛がり。姪を喜ばせるために歌い、姪が悲しそうにしたら速攻で抱きしめ、ちょっとでも痛がったらすっ飛んでいき、愛おしそうに寝顔を見つめる。明らかに「経験者」の身のこなしだった。きっと私も、こうやって大事にされたんだろう、と思えた。
実際はどうだったかは、分からない。でも私は信じた。この人たちは私を愛してくれていた。姉や弟と同じくらい、たっぷりと。
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昨日、親から一通のレターパックが届いた。品名には「ペーパークラフト」とある。なんのこっちゃと思いながら封を開けると、折り紙でつくった雛人形がでてきた。
近所のおかん・ばあばコミュニティの間で、ペーパークラフトが流行っているらしい。
もう結婚した娘に雛人形は必要ない。しかし私はこれを喜んで受け取る。
3月3日・ひなまつりは、私の誕生日である。
誕生祝いとして贈られた雛人形を飾ってみる。生まれたときに宴がなかったことなんて、私はもう全然、気にしていない。
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