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noteを書くのが怖くなったのでnoteを1ヶ月読み続けたら
5月の終わり頃から、「note、書きたくないなあ〜」と思うことが増えて、8月の終わり、ついにnoteを書くのがイヤになって、やめてしまった。
noteむずい。
note書けない。
私が書く必要なんかない。
書く資格もない。
noteに向き合おうとすると、真っ白な新規投稿画面が、真っ暗な底なし沼みたいに感じた。
noteを書くのが、とても怖くなっていた。
そこからの1ヶ月、つまり9月いっぱいは、noteを読み続けた。
書くのはすっぱり止めて、読めるだけ読んだ。書いているときより、noteにいる時間が多かったかもしれない。
そうしたら、「わたしでも、noteを書いてもいいのかもしれない」と思えるようになった――
という、今年の夏の経験を、書いては消し、書いては寝かせしていたら、まもなく12月ですよという時期に来ていました。
とっても個人的な話だし、暗くてジメジメした気持ちを書いて公開するのはちょっと気が引けたけど、でも、けじめとして残しておきたいな、と思ったので出すことにしました。
「noteが好きなのに、嫌いになりそう……」とか、「なんでこんなに辛いのに発信なんてしたいの?」みたいな気持ちになりそうなとき、ここに戻ってこられるといいな~と思ってます。
|承認欲求vs知らない人に知られる恐怖
noteを書くのがイヤになってしまった理由は、3つほど思い当たる。
ひとつめは、自分の発信活動に対して疑問を持ったこと。タイミング的には5月の末の頃。
私はnoteを、仕事のために書き始めた。
自分のサービスを通じて、誰かの役に立ちたい。
自分の力を発揮して、自信をもちたい。
だからサービスを知ってほしい。
そのためにnoteを通じて私の経験や思いや取り組みを伝えたい。
というのがnoteを書く目的だった。
でも書いているうちに、「仕事のため」といいながら、その奥に「私を知ってほしい」という気持ちがあることに気づいて、気持ち悪くなった。
書きながら自分を見せ方に悩んでいるとき。
目を引くエピソードをなんとか思い出そうとしているとき。
読者からのリアクションを必要以上に気にするとき。
大切な、自分だけの思い出を、ネタにしようとしているとき。
私のことを伝えるのは、サービスを知ってほしいからでも、読んでくれる人のためではなく、「私を」知ってほしいから?「私を」認めてもらって気持ち良くなりたいから?
心の奥の、暴走しそうな承認欲求にゾッとした。
私はそんなに、自分のことを誰かに認めて欲しいのか。そのためにnoteを書こうとしているのか。そう思うと、自分がとても浅ましく感じてイヤだった。
そんなふうに「私を見て」と思う一方。
普通に暮らしていたら私の存在を知ることはなかった人に、自分の中身を知られてしまうのが、それはもう怖かった。
noteを始めてすぐに、記事がたくさんの人に届いた。案内したサービスにも、申し込みがあった。
とても嬉しかった。
でも、そのありがたいつながりと並行して、怖さを覚えるつながりも生まれた。
フォローバック狙いのアカウント。
なんの目的でフォローしてくれたのか分からない人。
いきなり突っかかってくる当たり屋みたいなコメント。
思いもかけない人とのつながりができるたび、不快感を抱いたし、怯えた。
自分のことを知ってもらいたいと願いながら、知られることを嫌がっている。頭を悩ませてnoteを書いて、自分を怖がらせ、疲弊させている。
なんでこんな自虐的なことをしているのか、わからなくなった。
そして、そういう気持ちで書いた記事で、自分のサービスを案内することが不誠実で詐欺みたいで、できなくなった。
こうして私の中には少しずつ、「note、書きたくないなー」という気持ちが増殖し始めた。
|毎日投稿に挫折
それでも「noteを書く」ことを続けたかった。
集客を目的にしなくとも、日々の中で感じたことや心に引っかかっていることを、書いて表現したかったから。
そのために「文章を書くこと」が上手くなりたかった。
私は昔から書くことを楽しんではいるけど、得意だと感じたことはない。
noterさんの中には、作文がスラスラかけちゃった人や、ブログが習慣だった人、それに、文章を褒められたり賞を取ったりと、書いたものを誰かから評価された経験がある人が多い印象がある。
でも私にはそんな経験はない。
ないのだけど、「書くことって楽しい」とずっと感じてきた。
読書感想文も、遠足の後に書かされる作文も、修学旅行先の京都で詠まされた短歌や俳句も、調べ学習後の記事風レポートも、ぜんぶ楽しんで書いた。
手紙を書くのにハマっていた時期もあったし、寄せ書きの一言に、いかに想いを込めるか考えるのも好きだ。
一時期はmixiのレビュー機能に映画の感想を書いていた。長すぎてエラーが出たことがある。いまも本や映画の感想はどこかしらに記録している。
日常の中で出会った疑問や気づき。
持て余している感情。だれか・なにかへの激情。
記憶に、心に、大切にしまっておきたい体験。
そういう、深く刻んでおきたい、忘れたくない、もっと浸っていたいようなこと。脳みそや心が揺れたときのことを、文章にするのが楽しかった。
ただ、文章が上手くない。
書きたかったことが書けない。
読みにくい。自分で書いたのによく意味が分からないこともある。
書くスピードも遅い。
内容も、なんか、つまんない。
それが悔しくて、だから、自分の気持ちや考えを言語化する力や、他者に伝わるように表現する力が、もっと欲しかった。
文章が上手くなるために、「noteを書くこと」は、最も身近で効果的で、なにより、「楽しい」手段だと思った。
だから毎日投稿をしてみることにした。
毎日1本何かしら書くことで、考えをまとめるスピードや、文章づくりに必要な表現力が養えると思ったからだ。6月のことだ。
でも、毎日投稿を始めて1週間もたたないうちに、楽しかったはずの「noteを書くこと」はたちまち苦行になった。
書きたいことがまとまらない。
書く時間が足りない。
書いてみたら大したことじゃなかった。
書いてみたら考えが穴だらけだと気づいた。
書くことがない。
書きたいテーマについて、毎日、その時点での「答え」を出し、記事という形でまとめるのは、「書くことが得意じゃない」私には難しすぎた。
しかもその「答え」は、たいていものすごく陳腐で、残したかった大切な瞬間をみずから台無しにしてしまっている気がして、イヤになった。
色々な苦しさがあったけど、いちばんは、書いていることを無理矢理「良い話」にしようとしているときだった。
なにかをnoteに書くとなると、どうしても「きれいな文章」に仕上げたくなる。
そのためにオチを付けようとしたり、ちょっと教訓のある風に繕ったりしてしまう。そして出来上がるのは、なんとまあ薄っぺらい文章。そういう文章は全部消した。
あんなに「書いて形にしておきたい」と思ったのに、どうして書けないんだろう。
どうしてこんなに苦しみながら書いているんだろう。
このままだとnoteのことも自分のことも嫌いになりそう。
そうして毎日投稿をやめた。
たった半月。引くほど速い。「潔い」と苦し紛れに言ってみても、ちっとも慰められない。かっこわるい。
自分の技術や能力の至らなさが悔しかったし、宣言したのに続けられない継続力や忍耐力や責任感の薄弱さが、情けなかった。
わたしは「noteを書くこと」を楽しめない人間なのか……。
そう思うと、noteの真っ白な画面に向かう自信がなくなった。
|「なぜ、私は書くのか」コンテストで醜態をさらす
3つめのきっかけは8月末の出来事にある。
毎日投稿を始めて1週間たったころ、note内で開催されたある企画が目に留まった。
「なぜ、私は書くのか」というコンテストだ。
すでに書くネタに困っていたわたしは、このお題にすぐ飛びついた。
毎日noteを「書く」ことにした「理由」。
これなら、今の気持ちをありのまま出せばスラスラ書けそうだ、と思った。実際その日は順調にnoteを書き終え、ホッとしたのを覚えている。
そして「せっかく書いたんだから、応募してみようかな」と思い、応募条件を満たすため、指定のハッシュタグを付け、主催者の方をフォローした。
「ものすごく軽い気持ち」だった。
そしてこのスタンスは、大いに場違いで無礼だったことが分かる。
8月末、コンテストの中間選考結果を発表する記事が公開された。
その記事には、選考基準や審査過程が、克明に、ときに厳しい口調で、情熱的に語られていた。
この熱意のこもった記事の内容に照らすと、私は応募者の中でも最低・最悪な参加者だった。
当然落選。
選考基準についての記述を読むに、おそらく「クリックされていない」だろう。
もし読まれていても、
「あわよくば受賞できたらいいな~みたいなノリで書かれた」
「読んだ人のことを1ミリも考えていない、社長(=主催者さん)が読んだら瞬間湯沸かし器みたいに怒り狂う」
ような記事だったと思う。
(この記述は現在公開中の記事からは削除されていたので曖昧な記憶で書いています。間違っていたら申し訳ありません)。
コンテストに対して真摯な気持ちで参加しなかったことをたしなめられ、反省したし、落ち込んだ。
でもそれでは終わらせてはもらえず。
結果発表の記事には「選考通過者」だけでなく「落選者」の記事のリンクが貼り出された。
こんなことするなんて聞いてないよ、と驚いたけど、かといって、「『落ちた作品もリンク貼ります』って最初から言われていたら、もっとちゃんと書いていたのに」と言い訳するのも違う。あのときの私の精一杯だったのは間違いないのだから。
落ち込みはさらに深まった。
主催者さんが上げていた参考作品や、その他の記事を読めば、そのお人柄やお考え、コンテストの趣旨も汲み取ることができたはずだ。
私はそれらを読んではいたけれど、目先の「今日もnote書かなきゃ」という焦りに囚われて、相手のお気持ちや自分の場違いな振る舞いに気付かなかった。
「本気の記事」を応募して来い、という思いをよく理解もせず、読まれる工夫もろくにせず、読む側の負担を想像することもできず、「なぜ書くのか」という書く者としての姿勢について自分を見つめる労力も割かず……。
このときほどアイコンで顔出ししてたのを後悔したことない。
落選者はこちら~の中に、自分の顔とともに記事が貼られる。アイコンの丸の中で私はニコニコ笑ってる。
審査員の方の手も心も煩わせた申し訳なさと、自分の軽薄さが曝されている悔しさと恥ずかしさで、noteを書くのが怖くなった。
この出来事を決定打となって、私はnoteを書くのをやめた。
.
私がnoteを書くのをやめても、別にだれも困らなかった。私自身も含めてだ。
noteを書き始めたときにあった「仕事のため」という目的はなくなった。
それでも自分のために書きたいことを書こうとしたが、素直に上手に表現できなくて苦しい。
そして醜態を曝してしまい、もう、書くのが怖い。
書いているときの自分も、出来上がった文章も、好きじゃない。誰かに読まれることが、怖い。
それに私は「なぜ私は書くのか」の講評で指摘されたように、「書くこと」や「読んでくれる人」に対して不誠実なヤツだ。
だから書くなんて、やらなきゃいい。
しなくていい。
資格もない。
書くことは決して得意じゃないけど、好きだとは思っていた。でもこのときはもう、とてもじゃないけど、そんなことは言えなかった。
|1ヶ月noteを読み続けたら「noteを書く理由」を見つけた
けれど、今はこうして、noteを書くことを再開している。
それは、9月いっぱい、たくさんの方のnoteを読んだおかげだ。この時間の中で、私は自分なりの「noteを書く理由」を見つけた。
「noteを書くのはリスクを負ってでも、言いたいことがあるときにしよう」と決めたのだ。
9月、noteの眼力に私の関心は完全に見抜かれていて、ホーム画面には「書くこと」に関する記事で常にいっぱいだった。
毎日投稿をしている方の思いや、続けるコツ。
毎日投稿の効果や是非に関する意見。
「なぜ、私は書くのか」コンテスト参加者の方の「書くこと」に対する思い。
コンテストに関する様々な意見。
時々、これってリセットできないのかな、と思うほど、毎日まいにち、色んな角度から書かれた「書くこと」に関する記事が並んだ。
それらの記事を通して、「書くこと」に対するさまざまな姿勢や情熱、覚悟や決意に触れた。それらは当然、一様ではなく、それぞれに魅力があった。
記事から発せられる「書いた人の言葉」に、共感したり、違和感を抱いたり、圧倒されたり、拒否反応が出たり。私は様々に心を動かされた。
何より心に刺さったののは、「自分の言葉を自分の責任において発している」という、noteにいるすべての人たちの姿勢だった。
「私はこんな体験をした」「こう感じている」「これは好きだ。あれは嫌いだ」「これから、こういうことをしたい」……。
読んだnoteの中にはそんな、書き手自身のパーソナルな部分に深く切り込んだものも多かった。自分の”中身”、たとえば価値観や感性、個人的な体験を、文章にしてさらしていた。
当たり前だけど、私たちの“中身”は万人に受け入れられるわけじゃない。ネガティブな反応、たとえば批判・嘲笑・拒絶なんかをされる可能性がある。
自分の内面を見られるのなんて、私にとってはそれだけで、めちゃくちゃ恥ずかしい。それに加えて、どこの誰かもわからない人からマイナスな反応なんてされたら、自分を丸ごと否定されているような気分になる。
考えただけで恐ろしい。
私はこの恐怖に耐えられなかった。
でも、書いている人がいる。
書いて、しかも他人に見せている。
この行為によって救われていると言っている人も多くいた。自分を癒すために書かれた文章は、率直であけすけで、だからこそ、私の気持ちを代弁してくれていることがあって、読んだ私を癒してくれた。
はっきりと自分の意見を主張している記事もたくさん目にした。穏便に、良い話として済まされようとしていることに対して、「おかしいと思う」と毅然と言い切った姿にしびれた。
批判・非難・誹謗中傷が待っているかもしれないのに、声をあげられるその勇気も、思いや感情をきちんと誰かに届けられる聡明な「書く力」にも、めちゃくちゃ憧れた。
傷つく可能性を分かりながら、それでも書く。
それが、すごくすごくカッコよく思えた。
傷つく可能性だけじゃない。
書いたものを公開することで、自分が傷つくリスクだけじゃなく、読んだ見知らぬ誰かを傷つけるリスクも生まれる。
このことは「なぜ、私は書くのか」の中間選考発表記事で詳細に語られている。
どういう記事が読んだ人を傷つけやすいか。
傷ついた人はどうなるのか。
とても考えさせられた。
傷つくリスク。傷つけるリスク。
そういうリスクを引き受けながら、自分のために、誰かのために、noteを書いている人がいる。
わたしもそうありたい、と思った。
|noteは書く人に、居場所と学びと問いをくれる場所
リスクを負ってでもなお、伝えたいことがあるから、noteを書く。
1ヶ月noteを読み続けて見つけた「noteを書く理由」は、とてもしっくりきている。
noteを始め、書いたものを公開するときには、傷つく・傷つけるリスクを負う。表現に伴う責任だ。
今まで何度も、こういう話を聞いてきたし、読んできた。そりゃそうだよね、と理解したつもりだった。でも、何にも分かってなかった。
「noteを書く」ことに打ちのめされて、「書くこと」そのものにも向き合ってみて、ようやく分かってきた。
自分の書いたものが負うリスクを自覚した上で、それでもなお、伝えたいこと。これからは、そういうことだけを、書いていこうと思っている。
だから、無節操に広く読まれようと小手先のテクを使ったり、目的も中身もないのに、義務感だけで毎日書こうとしたりは、しない。
当たり障りのないことや、耳触りのいいことを書きそうになったら「それって本当に言いたいこと?」と自分に問う。
憤りや悲しみなどの強い思いや、「おかしい!」と声を上げるときは「覚悟はあるんだね?」と自分に問う。
それが私なりの、noteと、noteを読む人たちと、noteを書く私自身への礼儀だ。
書くのをやめたきっかけもnoteなら、と再び書きたいと思ったのもまた、noteのおかげだった。
noteは、「書きたい人」に広く開かれ、「書くこと」についての学びに溢れ、「書くこと」の奥深さを体感できる場所。
書く・発信する・表現する人に、居場所と学びと問いを与えてくれる場所なのだな、と感じた3ヶ月だった。