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何を得たいかではなく何を残したいか?

年金生活に突入してから、60年過ごしてきた故郷を離れ、見知らぬ土地で暮らしながら様々な新しいことに挑戦し、「人生100年時代を引退しないで生きる!」と、声高らかに叫んできたが、2025年立春を前に、急激な心境の変化に襲われている。
予定にはなかったけれど一旦列車を降りて、小さな駅のプラットホームのベンチに座っているような気持ちなのだ。
頑張って発信し続けてきたSNSからもそっと離れ、
誰のためでもなく
ちまちまと手芸をしたり、黙々と文章を書いたりしていたいなと。。。

私の未来数(チャレンジ数)は9である。
9は奉仕の数字。人の為に役立つことをするというのが人生のテーマである。しかし、そのことを考えるあまり、役に立っていない自分が価値のない人間に見えたり、「何かをしなければ」という強迫観念に苛まれたり、この2年、走り回った割には「これじゃない!」「求めたものと違う!」と空回りしていたように思う。
私は何を得たいのだ?
そして何を伝え、何を残そうとしているのだ?
いや、諸行無常の地球時間、何も残せないことはわかっている。
それでも人は何かしら自分の生きた証を残したいのではないだろうか。
私もその一人ではある。
しかし、最近思うのだ。
私を育んで、すでに地球を離れ、故郷に帰ってしまった人たちの生きた時間のことを。
例えば、父のこと。
例えば、母さん。
日々の暮らしに追われ、思い出さえも薄れていく中で、ふと心によぎる温かい気持ちや強い後悔。それこそがその人たちと共に生きた確かな証だとしたら、人はなんとささやかで重いものを残していくのだろうか。
美術家や作曲家や漫画家や作家という『家』と名のつく人々はそのほかに[作品]という形あるものを残すけれど、私のような普通の人間は形あるものなど何も残せない。
だが、自分の心の中にだけは残せると思うのだ。その私も体は消えてなくなるだろうが、心に刻んだ物語だけは宇宙の図書館に持っていけるような、そんな気がするのだ。
共に生きた人たちのことを静かに思うことで、自分の人生も振り返りたい。
これからはそんな日々を過ごしつつ、まだ見ぬ世界を見に出かけたいとも思う。それがきっと私の傍にいて愛を注いでくれた人たちも見たい景色なのだろうと思うから。

そんなことを思う和暦元旦の朝です。

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