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フランス史🇫🇷 アンリ四世の生涯 前編 ~ユグノー戦争とフランス統一 ~
はじめに
今回は日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、フランス史において非常に重要な人物アンリ四世(1553~1610)についての記事です。
今回彼を取り上げようと思った理由はたくさんありますがいくつかあげるとするなら、
-カトリックとプロテスタントの間で40年近く続いたユグノー戦争を終結させた重要人物であること
-欽定訳聖書(KJV)の未来予測において非常に重要な年である"1589年"にヴァロワ朝が終わりを迎え、アンリ四世が新たなブルボン朝の最初の王となっていること
-"彼の血筋が現代どこに繋がっているのか"が非常に興味深いこと
さらには7月に二週間訪れた南仏でも幾度となくアンリ四世に関する情報が入ってきて、常に彼からインスピレーションを受けていたため今回彼の記事を書くように促されていると感じました。
ではフランス国民から"良王アンリ"と呼ばれたアンリ四世の生涯を見ていきましょう。
幼少期
プロテスタント(ユグノー)の家庭に誕生
ナバラのアンリは1553年12月13日にバスク地方ナバラ領のポーで誕生しました。
父は当時ユグノーの盟主であったブルボン家のヴァンドーム公アントワーヌ、母はフランス王フランソワ1世の姪であるナバラ女王ジャンヌ・ダルブレであり、彼女は熱心なユグノー(カルヴァン主義プロテスタント)でした。
そのためアンリは幼い頃からプロテスタントの教育を受け育ちます。
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ちなみにユグノーはフランス語ではHuguenotと綴ります。
以下はフランス語のWikiページですが、ユグノーの紋章であるユグノー十字をしっかりと覚えておいてください。
後半のまとめで繋がってきます。
カトリックへの改宗と父の戦死
アンリが八歳の頃に転機が訪れます。
1561年にプロテスタントだった父アントワーヌ•ド•ブルボンがフランス王室内で、王母として実権を握っていたカトリーヌ・ド・メディシスにより王国総司令官に任命されたため、政治的な理由でカトリックに改宗してしまいます。
熱心なユグノー教徒であった母ジャンヌ•ダルブレは変わらずプロテスタントの信仰を貫いたため、両親の関係は宗教の違いにより次第に悪化し遂には別れてしまいました。
アンリはカトリックとなった父に引き取られカトリックの教育を受け始めます。
しかし、その矢先の1562年にユグノー戦争が勃発し11月には父がルーアン包囲戦で重傷を負い亡くなってしまいます。
こうしてアンリはヴァンドーム公位を8歳にして継承します。
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ノストラダムスの予言
1564年10月17日、10歳のアンリは当時カトリーヌ•ド•メディシスから絶大な信頼を得ていたある予言者に出会い、将来フランスの王になり国を統一するだろうと予言されました。
それが、かの有名な占星術師ノストラダムスです。
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将来フランスの王となる事を予言した
10歳のアンリはノストラダムスに心酔していたカトリーヌ•ド•メディシスの宮廷へと引きとられることになります。
メディチ家によるフランス統治
もうお気づきの方もいるかと思いますがカトリーヌ•ド•メディシスのメディシスという名はイタリア語のメディチのフランス語表記です。
当時のフランス王室はフィレンツェの名家メディチ家の影響を強く受けていました。
メディチ家って
— ラマちゃん🍇 (@DollyLlama77) December 22, 2020
銀行業や政治家や、それこそcin業やって
ルネッサンス期にフィレンツェで台頭した一族。
銀行の高利貸しで得た富を
資金洗浄するため多数の芸術家をパトロン。
(ダ・ヴィンチ, ボッティチェリ, シェイクスピア...)
現代になっても、
エンタメやCMのスポンサーっていえば製薬会社。 pic.twitter.com/I9YK1stuiy
1994〜1997年に放送されたディズニー制作アニメ「ガーゴイルズ」のワンシーン。主人公のデモーナが「メディチ・タブレット」に刻まれた「オペレーション・クリーン・スレート」という作戦を実行に移す戦略を披露。メディチといえばメディカル(医療)の語源になっている両替商メディチ家が有名🤫 pic.twitter.com/C2XKeWTpG8
— あいひん (@BABYLONBU5TER) January 5, 2023
当時のフランスは国王であったアンリ二世が40歳にして事故で亡くなり、シャルル9世がわずか10歳にして国王となったため、イタリアのメディチ家(カトリック)から嫁いで来た王母カトリーヌがフランス王室内で実権を握っていました。
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勢力を拡大しようとするローマカトリックに対抗する反対勢力のプロテスタント運動がフランスでも活発になり、長く壮絶な内戦、ユグノー戦争が続いていくことになります。
青年期
再びプロテスタントへと改宗
14歳になったアンリはユグノー戦争が再び激しさを増す中、母親のジャンヌ•ダルブレに連れ出され宮廷を脱出しラ・ロシェルへと避難します。
1569年3月13日、ユグノーの盟主であった叔父のルイ1世(コンデ公)がジャルナックの戦いにて戦死してしまいます。
これにより再びプロテスタントへと改宗した15歳のアンリがユグノーの盟主となりました。
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マルグリット•ド•ヴァロワとの婚約
1572年、王母カトリーヌはカトリックとプロテスタントとの融和のためという理由で、アンリ四世と自身の娘マルグリットとの婚姻を提案します。
宿敵カトリック教徒との結婚はプロテスタントであるアンリの母にとってはあり得ない決断でしたが、戦争の終結を期待し渋々と結婚を承諾し4月11日に婚約が結ばれました。
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母ジャンヌ•ダルブレの突然死
8月18日に挙式を控える中、アンリの母ジャンヌは5月16日に挙式の準備のためパリを訪問します。
彼女がパリ滞在中に友人に向けて書いた手紙には"ナバラの女王は体調が良くないが頑張っている"と書かれており、パリに到着してから急に体調を壊した事が分かっています。
結局ジャンヌは体調悪化によりパリをあとにし、6月4 日にナバラへと帰国、その5日後の6月9日に43歳の若さで亡くなってしまいます。
彼女の死に関して真相は謎のままですが、彼女がパリを訪問中に急に体調を崩したことから、ユグノー陣営はカトリーヌ•ド•メディシスがジャンヌに用意した手袋に毒を仕込んで暗殺したとして、カトリーヌを猛非難しています。
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挙式 サン•バルテレミの虐殺 再びカトリックへと改宗
8月18日、パリのノートルダム聖堂にて挙式は予定通りに行われユグノー戦争の終結に向かっていく事が期待されますが、その直後の8月24日に歴史に残る大惨劇が起きてしまいます。
挙式にはユグノー側の貴族や有力な指導者達が集まっていたのですが、カトリック陣営の中心人物であるギーズ公アンリ1世の兵がユグノーの中心人物であるコリニー提督を暗殺した事を皮切りに多数のユグノー貴族達が殺害されてしまいます。
ユグノーの虐殺は市民の間にまで広がり犠牲者の数は1万から3万人と推定されています。
囚われの身となっていた18歳のアンリは生き残りますが、再びカトリックへの改宗を余儀なくされます。
この件に関しても虐殺を裏で企てたのはカトリーヌ•ド•メディシスだという説が有力視されています。
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ちなみにサンバルテレミの虐殺という名は、事件が起きた8月24日がイエスキリストの使徒の一人である、聖バルテレミ(バルトロマイ)の記念日である事に由来しています。
あと余談ですが、バルテレミ(Barthélémy)は英語表記ではバーソロミュー(Bartholomew)となります。
海賊マンガ、ワンピースにはやはりたくさんのメッセージが散りばめられているようです。
メディチのお話を知っていると、なぜ少年誌のキャラクターにこんなのが登場するのかと不思議に思います。
— 霜月 やよい@「数」と「幾何学」と「象徴」 (@As_above_So_me) July 7, 2021
「聖書」「バーソロミュー」からすぐにユグノー虐殺が浮かびますし、「くま」なんてねぇ...
イタリアのクマが.... pic.twitter.com/P1gdfLVleD
フランス王アンリ四世とブルボン朝誕生までの流れ
アンリ三世の国王即位
フランス王室内もまた波乱万丈が続きます。
1574年5月30日、カトリーヌの息子でフランス王だったシャルル9世がなんと若干23歳の若さで亡くなり、当時ポーランド王になっていた弟アンリ三世が急遽帰国しフランス王に即位します。
国王アンリ三世はカトリックなのですが、戦争の終結を願う穏健派でした。
後に結成するギーズ公率いる過激なカトリック同盟と対立し、プロテスタントであるユグノー陣営に歩み寄るなどイレギュラーな行動で歴史を大きく動かしてゆきます。
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ナバラのアンリ宮廷脱出から再びプロテスタントへ改宗
さて、カトリックに改宗させられてから3年の月日が経ったナバラのアンリは、1576年2月狩猟の最中に宮廷からの脱走に成功します。
5月6日には国王アンリ三世によりボーリュー勅令が出され、パリ城壁内以外の全ての場所でのプロテスタントの公的礼拝が認められました。
その後6月13日に再びラ・ロシェルでプロテスタントへと改宗しユグノーの盟主に返り咲きます。
アンリ三世がプロテスタント側に有利なボーリュー勅令を発したことを良く思わないカトリック陣営はギーズ公アンリ一世を中心とした過激派のカトリック同盟を結成します。
ナバラ王アンリがフランス王位継承者へ
1584年6月10日、王室内にまたもや衝撃が走ります。
王母カトリーヌの四男であり次期王位継承者であったアランソン公フランソワが29歳の若さで亡くなってしまいます。
兄のシャルル9世に続き王室内では王位継承者であった二人の王子が共に20代の若さで亡くなっているため、当時フランス国内ではあれやこれやといろんな情報が飛び交ったのではないかと想像します。
当時のフランス王は三男のアンリ三世でしたが、彼には後を継ぐ子供がいなかったため、サリカ法に基づき次の王位継承者はルイ9世の血を引くナバラ王アンリ(アンリ四世)となりました。
(真相は分かりませんが後継ぎがいなかったため、アンリ三世が同性愛者であるという噂も多く流れたようです。)
しかし、これに対しカトリック同盟が黙ってはいません。
プロテスタントの王の誕生を阻止するべく、サンバルテレミの虐殺を指揮したカトリック同盟のリーダー、ギーズ公アンリはスペイン・ハプスブルク朝の王であるフェリペ2世から支援を受けます。
カトリックの盟主であるフェリペ二世がカトリック同盟に莫大な援助を提供することで、フランスの内戦を長引かせプロテスタントの壊滅に加え、フランス王室の弱体化を図ります。
三アンリの戦い
こうして戦局は
•フランス王アンリ三世(穏健派カトリック)
•次期王位継承者ナバラのアンリ(プロテスタント)
•カトリック同盟のリーダ- ギーズ公アンリ(過激派カトリック)
の三アンリの三つ巴合戦となります。
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1585年7月、穏健派の国王アンリ3世はカトリック同盟の圧力の下で渋々ながらヌムール勅令を発し、プロテスタントの礼拝禁止に加え、改宗に応じない者の国外追放を強いる弾圧政策、さらにはナバラ王アンリの王位継承権無効を宣言します。
ローマ教皇シクストゥス5世もこれに応じて、ナバラ王アンリのナバラ王位とフランス王位継承権の剥奪を宣言。
こうして再び戦闘が激化してしまうのですが、プロテスタント側はドイツ、デンマークに加えて、イングランド女王エリザベス1世からの援助もあり、1587年10月20日クートラの戦いでカトリック軍に大勝を収めます。
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(気付いてしまった方もいるかもしれないですが、カトリック陣営はスペインハプスブルク家のフェリペ二世に支援を受けプロテスタント陣営はテューダー家のエリザベス一世に支援を受けていたため、ユグノー戦争はスペインハプスブルク家とイングランドテューダー家の代理戦争だという見方もできますが今回はそこは深掘りせずに進みます。)
ギーズ公アンリの暗殺
カトリックの立場ながら、穏健派で宗教内戦の平和的解決を願う国王アンリ三世は、カトリック同盟内では評判が悪く、逆に過激で好戦的なギーズ公アンリはパリを中心に北部フランスを制圧し英雄視されていました。
パリの王とまで言われ人気を集めたギーズ公アンリを危険視するアンリ三世は、彼のパリ入城を禁止にしますが、逆にパリ市民は国王に対し蜂起し、国王アンリ3世はギーズ公アンリに熱狂する過激派から命を狙われるようになりシャルトルに避難します。
このようにカトリック陣営内でも"内戦の終戦を願う穏健派"と"プロテスタント駆逐を掲げ熱狂する過激派"に分かれていました。
1588年12月22日、国王アンリ三世はその後の歴史を大きく動かす大胆な行動を起こします。
対立していたカトリック同盟と和解すると見せかけギーズ公アンリと彼の弟のギーズ枢機卿をブロワ城に召集し、自身の寝室へと呼び出すことに成功すると寝室の護衛達がギーズ公アンリを剣で突き刺し暗殺してしまいます。
弟のギーズ枢機卿も捕らえられ翌日に殺されてしまいました。
この時、病床にあったカトリーヌ•ド•メディシスは息子の行動にショックを受け翌月1589年1月4日に70歳で亡くなっています。
カトリックの国王がカトリック同盟のリーダーを暗殺してしまうという考えられないようなこの大事件はその後プロテスタントのナバラ王アンリがフランス王アンリ四世となりユグノー戦争終結という劇的な流れへと繋がっていくことになります。
ここからナバラ王アンリ率いるプロテスタント陣営がさらに勢いを増していきます。
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アンリ三世の暗殺とヴァロワ朝の終焉
国王アンリ三世がギーズ公アンリを暗殺したことでギーズ公を英雄視していたパリ市民、カトリック同盟は憤慨しパリでは国王に対する不満がピークに達します。
そんな状況下にあり、国王アンリ三世はなんとカトリックにも関わらずナバラ王アンリ率いるプロテスタント陣営と協力関係を結びパリ奪回を目指します。
しかし1589年8 月1日朝、彼は自身が起こした行動の代償を払うことになります。
歴史を大きく動かしたヴァロワ朝最後の王は、カトリック同盟に属するドミニコ会修道士ジャック・クレマンに短剣で襲われ重傷を負い翌日8月2日に亡くなってしまいます。
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これにより1328年から270年間続いたヴァロワ朝が断絶してしまい、王位継承者であるナバラ王アンリはノストラダムスの予言通りにフランス王アンリ四世となり新たなブルボン朝を開きます。
長年の内戦で真っ二つに割れたフランスは新たなフランス王アンリ四世の誕生によりいよいよ内戦の終焉を迎え国の統一へと向かっていきます。
前編のまとめ
ナバラ王アンリが予言通りフランス王となり、新たなブルボン朝が誕生して盛り上がってきたところですが今回の前編はここまでとなります。
カトリックとプロテスタントの宗教戦争とされるユグノー戦争を振り返ってみていかがでしたでしょうか?
古い価値観と新たな価値観の対立により分断する社会構造が現代の私達ともリンクしていることに気づいた方も多いのではないかと思います。
ナバラ王アンリが何度もプロテスタントとカトリックを行き来したことをどう感じましたか?
国王アンリ三世が同じカトリックのギーズ公アンリ一世を暗殺し、敵であるはずのプロテスタント陣営と協力したことをどう感じましたか?
宗教戦争と言われていますがこの戦争が起きた本当の原因は本当に"信仰の違い"だったのでしょうか?
ではここで伏線の回収です。
前半に話したプロテスタントの紋章であるユグノー十字を振り返りましょう。
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マルタ十字に寄り添う4つのフルールドリスと聖霊の象徴である白鳩
この紋章、実は初めからあったわけではなく1688年にとある騎士団の勲章をそのまま模倣した物がユグノー十字なんです。
その勲章というのがあのアンリ三世により1578年に結成され現在フランスで一番格式の高い騎士団とされている聖霊騎士団の勲章です。
日本語のWikiがないため以下は聖霊騎士団のフランス語のWiki ページです。
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白鳩の位置が変わっただけであとは全く同じです。
以下の日本語の記事にユグノー十字の起源と聖霊騎士団についてよくまとめられています。
実はタイトル画像のアンリ四世もしっかりこの勲章を着けています。
つまり、
カトリックのアンリ三世が結成したフランスで最も格式高い騎士団の勲章がプロテスタントであるユグノーの紋章になっている
ということでした。🤫
事実は小説より奇なり
ですね
さて、はじめの方で説明したこの記事を書き始めた理由については何も触れてないじゃないか?という声が聞こえてきそうですが、そちらは次回の後編にてしっかりと繋げていきますのでお楽しみに。
およそ6600文字の長い記事でしたが最後までお読みいただきありがとうございました。
気に入っていてもらえたらこの記事にスキしちゃってくださいね。
2023年8月27日
愛
追記
霜月やよいさんの補足🧙♀️
なぜ今更こんな古い西洋の歴史を学ぶ必要があるか?
— 霜月 やよい@「数」と「幾何学」と「象徴」 (@As_above_So_me) August 27, 2023
記事内の「ユグノー虐殺 / バーソロミューの虐殺」と「レパントの海戦」を祝し、1572年、カトリックの教皇は"9月11日"を「祝日」としました。
つまり2001年のアレが始まりじゃないの。
なんでもずっと昔からなの。 https://t.co/utkBPInA2g
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Wikipedia サン•バルテレミの虐殺
国内外の反応より
知らねば見えぬ何事も。
— 霜月 やよい@「数」と「幾何学」と「象徴」 (@As_above_So_me) August 27, 2023
知らぬは見えぬと同義。
故に必然が偶然となる。 pic.twitter.com/N4Z2dsTnRw