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日記を捨てるか、とっておくか
書店にゆくと無意識に今村夏子さんを探しているわたし
烏丸御池の中にある大垣書店で
木になったあやという本を一冊みつけました
最後のページに
今村夏子さんのエッセイが載っており
日記のはなしだった
今村夏子さんは日記をつけるかたらしく
お仕事でエッセイを依頼されたときヒントにしようと日記をあけるとネガティブな感情で満たされており
持っていると悪そうなので日記を処分せねばとビーフシチューの残りのルウを染み込ませてゴミに棄てたのだって。それが毎回日記を処分する方法なのだって。そう書かれていました。
もうやり方は墨汁で変えられたそうだけれど
ビーフシチューで染めるという発想に驚いたのと、次に思ったのが日記を処分していいんだ!と、そうだよね!、とほっとした
小学一年生からはじまった日記は続いて続いて、なんだか知らないけれど、どうなるのか知らないけれど、成長していくのだ、とわくわくしていた日記は溜まっていった。
それは時にはほんとうに未熟で
ほんとうにネガティブで。
ほんとうに突拍子もない。
かなり赤裸々で
アンネの日記のうつくしさを思い出しながら
穴があったら入りたいわたしの日記
そんなめちゃめちゃな日記の語り手の昔のわたしは、何故か自信たっぷりで、ためてためて山積みになった日記を老後ぐらいの楽しみにしたいってぐらいの気持ちでいた。置いておいてねって祈りながら書いていた。
そしてそのバトンは繋げず、とても迷ったのだけれど、やっぱり置いておけない。、となり
大学生ぐらいに燃やしたいページだけノートから千切って捨ててしまった
その後、京都府立図書館で
パウルクレーの日記をみた。きちんと無茶苦茶で日記の中で、恥じらいで無意識にそらすようなことせず、きちんとヒトであって人間をしていた。すがすがしいや。そっか日記には恥じらいっていらないや。日記であって、自分との秘密だから。
それでやっぱり捨てちゃよくなかったかなと思い返すようになった。過去のわたしを否定するような態度じゃないか、と思ったり。
だけれど、今村夏子さんのエッセイやサルーテさんのスレッズで日記を燃やして成仏させた。みたいな呟きと出会い。
わたしもこの日記を捨てるか、捨てないか問題が整理がついた🧹
千切って捨てたくなったりするのは
わたしが思ったほど単純に綺麗な流れで成長することはできなかった。のだから。
たしかに過去のわたしがいるからいまに繋がっている。けど、そのつるんとした言葉にはまとまらないようなまだ落とし込めていない出来事もたくさんたくさん。振り返ろうとするたびすっきりしない。
その出来事を体験したわたしが語る日記は一番純度が高いのかもしれないけれど
書かれた事実や感情の乗った言葉のパワーを手放しその過去をつくりなおす可能性をみいだすほうほうがわたしには必要なのだ。
いまのわたしも日記を書いており
スケッチみたいにアイデアを描いたりして
計画することができないわたしにとって、
感じていることを書き記すことはこの先どう在るかの道標としてあってくれている。
昔のわたしに言いたいのは日記を描いてくれてありがとう。と
秘密の隠れ家を作ってくれて、わたしにできる、わたしの感受性の守り方を教えてくれて
わたしの小さな器に
わたしについて知れる意味が
流れ星みたいに流れてくるかもしれない。
若しくは意味なんて要らない強さが一瞬でも流れたりして
そう信じて今をめいいっぱい頑張りたい。
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