
ボーダーライン
昔から両親・親族の顔色をうかがってきたし、周りの人に合わせてきた。
おかげで少し社会を知るようになって、周りの人たちの「自分」の強さに圧倒されるようになった。そういった「強い」人たちに合わせておけばいい。自分を出したらぶつかる、嫌われちゃう。自分が我慢すればいい。
そんな風に生きてきた節がある。
コロナ禍を経て、出かけないことや一人でいることに随分と慣れた。年を取ったのもあるだろう。いい加減、自分に素直で生きる快適さが他人に受け入れられない辛さに大きく勝ることに気づく。四十も過ぎた最近では、嫌われたっていいや、きちんと自分の考えを伝えようという思いも強まり、そしてそれを伝えるだけの勇気を持つこともできた。自律神経失調症を経験したこともあるが、ごく自然に発生した感覚である。
それまでは、異なった意見を言うことが相手の感情を逆なですることにつながると思っていたし、実際そういうことが多かった(今でも起こることだが)。しかし、時代の流れとともに、異なった意見を持っているということが「持っている意見が違う」だけだというシンプルな受け取り方ができる人が増えてきた印象がある。そんな背景から自分の意見を言うハードルが下がったのだろう。
他に考えられる要因としては「孤独」への恐怖が薄れたことである。若いころはたくさん友人がいることがステータスと捉えられる風潮もあり、孤独や孤立に対する恐怖がとても強かった。
では今現在、孤独に対する恐怖は全くありませんかというとそんなことはない。しかし、自分を偽ってまで忌避するものではないと考えている。
私たちは死ぬ。死というのは何人たりとも抗えない決定的な未来である。その時は孤独だ。孤独は生まれてから死ぬまで共に歩むものなので、目を逸らさずさっさと受け入れてうまく付き合っていくしかない。
遅かれ早かれ孤独になるのだ。今嫌われて人が離れてもなにを動じることがあろうか、と考えるようになった節がある。
離れる人は離れるものだ。
そういう運命なのだ。
「言葉は通じるけれど、話が通じない」人は一定数でいる。
それは自分やその人が悪いのではなく、交じり合わないものなのだ。
お互いに責めたり、けなしたりする必要はない。
ボーダーラインを大切にしよう。