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黄砂の籠城上 松岡圭祐
1900年春、砂塵舞う北京では外国人排斥を叫ぶ武装集団・義和団が勢力を増していた。
暴徒化して教会を焼き討ち、外国公使館区域を包囲する義和団。
足並み揃わぬ列強11ヵ国を先導したのは、新任の駐在武官・柴五郎率いる日本だった。
歴史の時間に義和団事件の所にアンダーラインを引いて、1900年義和団事件、外国公使館(今の大使館)区域が、民衆の反感を背景に組織された義和団に襲撃されました、と覚えた。
年号が1900年なので覚えやすくてラッキー問題だと思った。
それだけだった。
しかし、この本を読ませていただいて、なぜ?歴史の時間にこの事件をもっと詳しく時間を割かなかったのかと、一石投じるべきだったと今なら思う。
柴五郎
柴五郎は、万延元年(1860)に会津藩士柴佐多蔵の五男に生まれています。
8歳で藩校日新館へ入学、戊辰(ぼしん)戦争が勃発します。
西軍が城下へなだれ込む直前、母親の強い勧めで、沢(門田町面川)の別荘へ出かけ難を逃れます。
しかし、祖母・母・妹らは自邸で自決し、屋敷は消失しました。
義和団事件
明治33年(1900)北京の外国公使館(今の大使館)区域が、民衆の反感を背景に組織された義和団に襲撃されました。
駐在武官に派遣されていた柴五郎は、解放されるまでの二ヶ月間のろう城戦を指揮し、その適切で勇敢な行動で、各国から高い称賛を受けています。
さらに、解放後に占領した北京で、略奪や虐待を厳しく戒め、中国の人々の保護にも努めています。
「もともと農民ですら読み書きでき、数学に強かった。
勤勉で勤労、集団重んじ、貧しい生活にも耐える。まるで国民全員が軍人だ。昼夜問わず東交民港の街路を警護する日本の兵士を見て、おぼろげにわかってきた。
武士道を受け継ぎながら、現代社会に適応している。それが日本人の特質なんだろう」
「剣を握ったら、左腕は曲げるな。切っ先を生かせ。左足を鍛えろ。遠い間合いから切り込む場合でも、左足で踏み込め。その方が太刀筋も伸びる。足さばきは踵を用い、腰を上下させるな。先に中心をとり、正中線に斬りこめ、会津の武士はそうしていた」
「敵を知り己を知り、敵と己を除くすべてを知れば、百戦危うからず」
重く重く、突き刺さる言葉の数々。
東交民巷で他の公使、足並み揃わぬ列強11ヵ国を先導したのは、新任の駐在武官・柴五郎率いる日本だった。
その素晴らしい采配に脱帽した、当時の最強大英帝国は、その後の日英同盟の礎のとなる。
そして当時の海軍の最大最強ロシアのバルチック艦隊を撃破した、日露戦争へと繋がる。
柴五郎中佐の誇り高き大和魂は、現代の私たちの中にも必ず受け継がれているはずである。
先の大戦で勇敢に戦った先人に、恥じないような生き方を指南する教えのある素晴らしい本でありました。
この本はおすすめです。
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