最後はなぜか上手くいくイタリア人 宮嶋勲
イタリアのイメージと現実
「食べる、歌う、愛する」に象徴されるように、イタリア人は、怠け者で、働かず、女性を追いかけて、歌を歌って気楽に暮らしているように思われがちである。
だが一方で、イタリアはEUの中核を担う経済大国であり、ファッション、デザイン、車、農業、食品などの分野で世界をリードする製品を生み出している。単なる怠け者大国ではないのだ。
著者ははイタリア的流儀の多くの洗礼を受け続けた。
いわく、「約束に15分遅れるのは礼儀だ」
「仕事の時間とプライベートな時間は厳密に分かれていない」
「分業という概念が理解できない」等々。
しかし、同時に、それらの一見とんでもなく思える行動規範の裏には、彼らなりのロジックがあり、非常にうまく機能している。
仕事が予定通りいかなかった時 イタリア人の言葉
「たしかにローマで打ち合わせしたことは守れなかった。
機材がいくつか届いてなかったことは私たちのミスだ。
ただ、そのことをいまここでいくら論じても何も生まない。
機材の手配も済んだし、あと2時間で到着する。
時間は遅れるが、この撮影は必ず終える。
いままでどんな撮影だって、終えなかったことはないんだ。
だからカリカリすればするほど雰囲気が悪くなって、うまくいく撮影もうまくいかなくなるぞ。
遅れたぐらいでイライラしないで、機材が着いたときにいい絵を撮れるように、リラックスするように日本側に言ってくれ。
絶対にいい絵が撮れるようにするから」
予定がくるってこんなイライラしている時に、こんな言葉を言われたら
どう考えても血圧が上がるし、自律神経が爆発するだろう。
体調が悪い時だったら、イタリア人の首を絞めてしまうかもしれない・・・・。
イタリアの常識
第一に、予定表や打ち合わせ通りに物事が運ぶなどと考えるのはイタリアでは大きな間違いで、そんなのはあくまで努力目標のようなものでしかなく、不測の事態が起こることのほうが普通である(まさに「不測」の事態は「予想」できるという矛盾した状態だ)。
慌てる必要はまったくないということだ。
人生は常に不測の事態の連続で、そんなことにいちいち腹を立てること自体がおかしいという哲学?である。
第二に、そのようなことがイタリア全体で常態化している限り、不測の事態に慌てるというのは愚の愚であり、どっしりと構えて、解決策を見出すこ
とに全力を尽くすほうがよほど大切であるということだ。
そこでイライラしても何も生まないし、むしろ事態は悪化する。不測の事態を乗り越えたときによりよい仕事ができる準備をすることこそ、重要なのだ。
そして第三に、どんな不測の事態が起こってもイタリア人は諦めずに、ほとんどの場合は最後になんとかする能力があるということである。
子どものころから不測の事態に慣れきっている分、それに対する対応能力が破格に高いのだ。すべてが綿密に準備され、計画通りに物事が進むことが当たり前になっている日本とは、ずいぶん異なる仕事のやり方であった。
まさに、「最後はなんとかなる国イタリア流仕事術」なのである。
時間の観念
イタリア人について聞く苦情の最たるものが、時間にルーズだということだ。実はこれには地方差があり、北部ドイツ語圏のアルト・アディジェ地方などは日本人並にパンクチュアルであるし、ミラノでもかなり時間を守るが、問題はローマから南である。
南にくだるにつれてどんどん時間にルーズになり、プーリアあたりでは1時間遅れなど日常茶飯事である。
記者会見10時開始」と言われたら、「10時ごろからだらだらと人が集まって、 10時半ごろ開始と読み直す」
午後、そして夜のイベントとなると、時間の遅れはもっと大きなものになる。
夕食と書いてあるが、1時間以上(ひどい場合は1時間半以上)遅れるのがふつうだ。にちゃんと来ている人より、遅れてきた人の都合を優先するというのが、イタリア社会全体の時間が常に遅れる最大の原因である。
イタリアにおいては、「19時半アペリティフ(立食)、20時半夕食」という案内を額面通りに受け取る必要はない。
これは「チャットしたければ20時ごろにアペリティフ会場に、それほどチャットしたくなければ20時半~21時に会場へ。
夕食が始まるのは21時半ごろと予想されるので、21時15分までに来れば何の問題もなし」と読み替えればいいのである
アポ
イタリア人にとって、アポの時間はあくまで数値目標である。選挙のときに出てくるマニフェストのようなもので、「この数字を目指して頑張ってみます」といった感じだ。だから「夕食20時」と言われれば、「20時に向けて
頑張ってくれているけれど、おそらく20時半~21時ごろだろうな」と読めばいいのである。
イタリア人の美徳
さすがに時間の概念に著しく知けているだけあって、自らの労働時間に関しても、権利意識が低い。
だから意外に残業に関しても寛容で、すこしぐらい時間がずれ込んでもあまり気にしない。「あまり細かいことは言わない」人が多いのだ。
イタリア人の仕事に対する考え方
ホテルのチェックイン窓口で人が何人も並んでいるのに、受付の人が客とダラダラとおしゃべりをして、イライラさせられるという光景にしょっちゅう出くわす。
しかしこれはいいように解釈すれば、受付の人は業務に縛られずにまだ自分の時間を好きに使うことができる、
「疎外されていない」恵まれた労働者なのである。
実際、業務をちゃんと遂行しない労働者に対するイタリア人の寛容さは、破格である。
労働契約の勝手な(おそらく誤った)解釈により、なし崩し的に資本主義の先鋭化を止めてしまい、いまだになんとなくのんびりと楽しげに働くことを可能にしてしまっているイタリア人。
恐るべしである
イタリアの国家観
リソルジメントと呼ばれるイタリアの統一と近代国家の誕生は、人民革命ではなく、サルデーニャ王国によるイタリア諸国の吸収合併という形で行われた。
イタリア国家は自分たちが獲得したものではなく、サヴォイア王家がよそから来て押しつけたものという意識が、中南部イタリアには強い。
それゆえ、納税義務と国民の権利がセットになった民主主義、市民文化を確立することができなかったのである。
イタリアと日本
イタリア人は日本とは正反対の考え方をしているようだ。
最高のサービスを提供するために苦労するつもりは毛頭ないが、同時に最高のサービスを受けられなくても、誰も文句は言わない。
あなたもそんな緊張感を強いるつらい労働はしたくないですよね。
私も嫌です。
だから列車が遅れても、車両が汚くてもお互いに我慢しましょう」というわけである。
上を目指しすぎて摩耗してしまうよりも、寛いで、ゆったりとした人生を過ごそうというスタンスである。
だからイタリアは何もうまくいっていないのに、なぜか人々は精神的余裕があって、幸せそうだ。あまりお金がなくても、楽しそうなのである。
定期的に読みたくなる本です。
大好きな本です。
読んでいて、それで社会がよく回るな・・・と思うのですが、でもイタリアは決して怠けてはいない。
たまに、とんでもない天才が出てくる。
ダヴィンチ、ガリレオ、ミケランジェロ、フェルミ、アルマーニ、ヴァレンチノ、ヴィヴァルディ・・・・。
とんでもない国である。
なのになぜ????
面白いです。
この本はおすすめです。