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謝ることの難しさ

無くしちゃった、どこにあるの!?

高齢の親と買い物に行った時の出来事です。
駐車場出口でレシートを提示して、駐車場料金の無料扱いをしてもらう場所でした。
その店舗の立体駐車場に入れるのは初めて。駐車場出口の係の方に、駐車券とレシートと同時に提示しました。
確認してもらい、発進しようとしたところで、「あれ、レシートをどこにやってしまったかな?」とハタと気付きました。もちろん、両手の中にはありません。
係員さんの方(ご高齢)を見ると、その背後にある駐車券入れの中に渡した駐車券が入っているのが確認できました。しかし、レシートはありません。
レシートというものの、家電の保証書などを兼ねているものなので、ないからいいやという訳にいかず。
自分のカバンの中やシートの隙間を探してもありません。少し車を前に出してから止めて、車の下を確認してもありません。

先程提示したので、必ずこのあたりのどこかにあるはず。「その駐車券入れの奥に置いたとかそういうことはないですか?」と尋ねたところ、その係の方は確認するそぶりもせず「ないです。絶対ないです」と即答。
少しムッとしたものの、スムーズな動きで対応されていたように感じたので、私はもう一度車の下やシート下などを確認することにしました。
そんな中、助手席に乗っていた高齢の親が、「その中にあるんじゃないんですか!?ちゃんと調べてください!!」と半ばヒステリックな剣幕で係の方に声を荒げ始めます。それに対し、係の方はやはり毅然として確認することもなく「ないです。入れてないですから」と即答。
突如として修羅場と化した中、数分やりとりの後に、係の方が「あ、そこにあるんじゃないですか?」と運転席のサンバイザーを指差しました。
確認するとなんと、ちゃんとレシートがしっかりとサンバイザーに挟まれていらっしゃるではありませんか!

私はひどく取り乱したことが恥ずかしいやら、大騒ぎしたことが申し訳ないやらで、「申し訳ないです、すみません」といい車に乗り込み、公道に出る際に、「疑ってしまってごめんなさい、ありがとうございます」と言って、その店舗を後にしたのでした。隣に乗っていた高齢の親は、しばらく車内で大人しかったものの、一度も係の方に謝ることはありませんでした。
なお、帰宅後、酷い頭痛がして少し寝込みました。ストレスによる頭痛って辛いよねぇ…。

準備しないと出てこない言葉もある

この件では、最後の「疑ってしまってごめんなさい」は、「ああ…酷い言いがかりをして手間をかけさせてしまった。なんていう客だと思われてるんだろうなぁ。謝らないと。」と思って出た言葉でした。とりあえず、最後にもう一言謝るぞと思っていました。
言い換えれば、謝るぞと意識してなかったら、きっとこの一言は出てこなかったと思います。
この一言で、係の方の心証が変わったかどうかは確認できずじまいですが、謝る時は「よし、謝るぞ!」と心を決めるアクションが必要なんだなと改めて思ったのです。
同じ謝るにしても、ちょっと邪魔してしまったときに無意識に出る「あ、すみません」とか何か溢してしまった時の「ごめんなさい」とは、謝りレベルの重さが少し違うような気がするのです。

心から謝りたい時には、言葉を伝える準備が必要

隣に乗っていた高齢の親はなぜ謝らなかったのか、理由を考えてみました。

・助手席に乗っていただけで、自分ごととは思っていないから。(その割に、係の方に対して口は出してるけど。)
・謝るほどのことではないから。
・結局、こちら側の落ち度だとわかり、恥ずかしくて肩身が狭いから。
・係の方の態度が悪かったと思っており、あんな態度の悪い人に謝る必要はないと思っているから。

確認していないので正解はわかりません。でも、4つとも、過去にそのように思ってしまったことがあるなぁと、そのような心情になってしまうことについては、私にも覚えがあります。きっと、私だけでなく、多くの方にとってあるあるの理由ではないでしょうか…?
ということは、なんとなくで日常のやりとりをしていると、私も「よし、謝るぞ!」モードにならなかったかもしれません。

謝れるか、謝れないか。その境目は、意識して謝ろうと思うかどうか、ここにあるのかなと思いました。
高齢者は経験を積んできた自負があるから、間違いを冒すのは恥ずかしいから謝れない…。一理あるようにも思うものの、ちゃんと謝れる高齢者もいるわけですから、年齢や経験で謝れる謝れないが分かれるわけじゃないですよね。

エサの取り合いも食う食われるもあるけど
ぼくらケンカばかりでもないよ、たぶん

言葉を吐くことと、言葉を使うこと

権利や自分の意見を主張することは大事だと思います。主張しなかったせいで、様々な権力構造の中で不当な扱いを受けたことは、私にもたくさん身に覚えがあります。力無き者には、訴訟が有効な手段であることも理解できます。
でも、昨今のギスギスした社会を見ていると、社会全体が今のコミュニケーションのままでいいのかなぁと思うことが多々あります。

忙しくて会うの大変だからLINEで。タイパ悪いので効率性を求めて在宅ワークで。上限140文字なので、超要約してとりあえずポスト。誹謗中傷はいけない。若者の犯行が増えたのは、親が悪いから…?
社会の速度に追いつこうと、全てが必死になっているけれど、昨今の社会の課題や対立してしまった事情って、そんなにあっさりと決められるものなのだろうか?

とりあえず話し、とりあえず文字にして、とりあえず話を聞いて、とりあえず文字を読んで、自分の意見を持ち主張する。最近ですと、とりあえずAIで作りました、も入ってくるでしょうか。忙しさを理由に、なんだか「言葉を噛み締める」ことや「言葉を考えて発信する」ことが、とても無惨に時間によって切り捨てられているなと感じます。
そして、個人的には、今後、その希少性や重要性が認識されていくような世の中になる…かなぁ?なるといいなと思います。
そのような方向性に転換しない限りは、人間も文化も社会も、時間というものに、文字通り心身ともに「忙殺」されるような気がしてならないのです。

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