成績異議申し立て制度の仲介者として思うこと
どうして喧嘩しなくちゃいけないんだろう、学生と教職員が。
大学における「成績異議申し立て制度」とか「成績確認制度」とか呼ばれるものの話です。いくつかの大学を転々としながら有期雇用職員としてこの制度を担当する部署で働いてきた過去があり、縁あって久々にこの仕事に戻ってきたわけですが、今年もまた相変わらずこの制度による学生との応酬が繰り広げられています。
そして今年もまたなんとも言えない気持ちになり、筆をとりました。
成績異議申し立て制度とは
この制度は名称は違えどどの大学にも設けられている制度で「成績 大学 異議」などと検索すると出てきます。「成績異議申し立ての書き方」なんていうコラムまであるのにはさすがにびっくりしました。そんなものを読まなきゃ書けないのなら、書く前のことができていないようにしか思えないのです。知恵袋を見ると「不服申し立て」などと書いてあるので、学生には相変わらず「不満を申し立てる制度」と思われている節があります。
この制度の流れは学生の申し出に端を発し、学生と教員とのやりとりがなされます。直接教員とやりとりするのはルール違反です。ばれないと思っても教員が職員に相談しに来たりルール違反であることを告げに来られるのでばれますし、ばれなきゃいいという問題でもありません。
職員を介する理由は、学生の異議申し立てが往々にして教員に対する脅迫や強い圧力をかけることになっているからです。学生の訴えで成績を変えてはいけないことなんて教員はよく承知しています。でも「もう就職先が決まっている、人生が変わってしまう、どうしてくれる」とか「この単位おとしたら教員免許(をとるための受験資格)がとれなくなる」「GPAが足りなくて留学の予定や奨学金の申請が狂う」と言われたら…一教員が背負うにはあまりにも重いことを訴求してくることが往々にして起こっています。
この制度は訴求する制度ではありません。申し立て理由を正しく書き教員も公正に評価していれば間に職員が入る必要はありません。とはいっても学生も教員も職員も人間なので、人間らしいずるさや感情は出てしまいます。間にいる職員は、学生の立場も教員の立場もわかるので何とも言えない気持ちになります。
学生に知っておいてほしいこと
2点あります。
1点目は、大学で「評価するのは教員」だということ。教員はあなたのがんばりを評価しているのではなく、与えた課題・問題に対しての答えができているか、提出ルール(期限や字数なぢ)がある場合それを満たしているかをもって評価します。「自己評価として80点だったから(がんばったから)60点以下の成績であるのはおかしい」も「友達と大体同じ内容に似せて書いたのに友達だけ合格なのはおかしい」も、申し立て理由として不備のため職員が申請を却下するということです。
ちなみにこの制度は成績開示(どの課題で何点得点しているといった詳細)を求める制度ではないので、詳細な得点を返答してくれたのは教員の厚意であることを知っておいてほしいです。学習履歴を自分で振り返ることの重要性から客観的な評価の積み上げを学生にも見える形にすることが推進されており、大学側もそれに応じる努力をしています。しかしあくまでもこの制度には、教員は詳細を開示しろという義務はないのです。将来的にはこのあたりは変わるかもしれませんけど。
2点目は履修登録漏れも成績評価も、事後は手遅れだということです。「じゃあ期末試験終わってから成績がついてしまうまでに教員に嘆願すればいいのか」と思う学生もいるのでしょうがそういうことではなく(ルール違反である上に、そういうことをする学生は教職員ともに感情的に好きにはなれないので逆効果です)、しっかりと履修登録ができたか確認する、単位落としそうだなと学期途中に振り返ったとき「なんとかなるだろう」でなんとかなる訳がないので、ちゃんとリカバリーする計画を立てて評価点を積み上げる。
教育の世界は公平であることがその根底にあるので、他の業界以上に不平等を生むようなことは許さない世界です。それゆえに巷で起こる教職員の不祥事の数々は信じられない思いで恥ずかしくて仕方なくなりますが、人間力が高い教職員ばかりではないのが現実のようです…と今や過去の身の回りの方々を振り返って思うのです。
喧嘩の間に入る職員は何をしているのか
文章には感情があらわれます。どんな学生でどういう履修をしてきたのか知らなくても、申し立て理由の文章をまずはじめに読む職員は「全てにおいて納得できなくてとにかく教員が憎いのか」「全てにおいて納得できないので茫然として考えがまとまらないのか」「この点数なのを理解してるけど気持ちが納得できていないのか」「この点数なのは理解できるけど、教員に一方的に下されることが不満で訴えたいのか」「この点数である理由を考えるのが面倒で友達と比べると公平でないのがおかしいから」などなど…文章からなんとなく伝わってくる情報もあります。
学生が本当にそう思ってるのかはわかりませんが、申し立て理由を読んだ時点で「もめる案件なのか」どうかは察しがつき、実際暗雲のたれ込める申し立ては嵐になります。
教員には申し立て文書をそのまま伝えますが、緩衝役として「学生が気にしているから多忙のところ承知ですぐ対応してほしい」とか「冗長なことが書いてあるが、成績のつけ間違いがないか粛々と確認してほしい」といったことをお伝えしています。そのため教員からの回答は無感情でロジカルな文章であることが多く、教師なのでそれが当たり前といえばそうなのですがきっといろんな感情を堪えて書かれているものかと推察します。たまに感情が少し滲み出てしまったような回答を受け取ることもあり、職員はこれを読む学生の感情を思うとハラハラしながら原文そのまま回答として学生に伝えることになります。
成績評価はその立場上教員が学生を振り回しているように思うかもしれませんが、腰が低い教員もいて強気な申し立ての学生に対しびくびくしながら職員に相談してくることもよくあります。特に卒業該当回生については、学生も気にしているでしょうが教員側も職員も非常にナーバスになります。喧嘩が嵐になりやすいのも卒業該当回生です。
「1回生でこんなにしっかり文章がかけるなんて」と感心してしまうような申し立て文章を書いてくる学生もいます。文章のできによって申し立て結果が変わることはなく成績に誤りがないものはどう書こうがないのですが、教員の回答文章は変わります。温かみのある文章なら受け取った学生も「そうか仕方ないな。応援してくれてるからこれからがんばろう」という気持ちにもなります。非常に感情的な申し立て文章に対して非常にロジカルに返すと「どうして私の気持ちをわかってくれないの」と学生は思うことでしょう。もっともこの制度は、教員が学生の気持ちを配慮しなくてはいけない制度ではないので「わかりませんしわかる必要はありません」でいいのですが…まあ、学生の心象を損ねるのは確かですよねーと思うわけです。
気にくわないときは一晩おいてから
SNSが主流になり、今思ったこと感じたことをすぐにSNSやコメント欄に書き込めるようになり、すぐにその反応すらかえってくるようになりました。
私は書こうと思いつつもどう受け取られるか考えすぎてしまい結局書けないというタイプなので、すぐに感情を表現できることが羨ましくもあります。一方でこの「感情の垂れ流し」を見るのがしんどくてSNSやコメント欄を一切見なくなりました。
昔は今と比べると自分の感情を主張できる場が限られていました。会社や家庭・学校など社会の「こうあるべき」に縛られていた部分から自由になりました。でもありのままでいいというのは自由に感情を出していいということとはちょっと違うんじゃないかな…などと今日も日記帳アプリになんとなく思ったことを書き殴ってから今日も布団につくのでしょう。
大きな喧嘩が世界規模で起こっておりその複雑な事情については全てを理解しているわけではありませんが、成績評価に関して挟まれる立場としては喧嘩はないに越したことないなーと改めて思います。
誰かや社会が決める力の有無によって、おごったりへりくだったりすることもなく自分を全うしたいものです。
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