決定論的過去受容

 決定論に対する否定的意見には次のようなものがある。(ChatGPT参照)

  1. 自由意志の否定と道徳的影響

  2. 倫理的ジレンマと道徳的責任

  3. 経験的直観と自己意識

  4. 因果的決定性と不確実性の矛盾

  5. 科学的知見との乖離

  6. 人生の意味や価値観の崩壊

  7. 社会的・政治的影響


 一応断っておくが、私は「現在」、つまり「いまここ」においては実存主義の思想をベースに採用している。自由意志の存在も認めている。
 
 では何が決定論なのかというと、過去に対する受容についてである。当然ながら、過去というのは変えようがない。特に、過去に犯してしまった罪。

 私は過去に犯してしまった罪がいくつもある。そしてそれを、誰にも話せないでいる。今後も話すつもりはないし、話してしまえばそれが救済に似た何かになってしまうのを恐れている。私は私を救済してはならないと思っている。
 救済されてしまえば、私の犯した罪はなかったことになるのか。私がその罪をなかったことにしても、私の犯した罪によって人生、あるいは人格の一部を損なってしまった彼らの気持ちはどうなるのだ。そういうことを考える。罪人にできることは、罪人であるというカルマを背負って生きるか、あるいは死ぬかの、どちらかではないか。

 そうした過去、罪の意識を受け入れるために、私は決定論を自発的に編み出した。決定論、あるいは運命論が既に他の誰かによって考え出されていたことを、後になって知った。

 過去の私が犯してしまった罪に対する、現在の私が持つ後悔については、ないはずがない。謝罪したい気持ちはもちろんあるが、今になって謝罪したところで、その謝罪には何の意味があるのだろうか。正直なところ、そもそも顔を合わせることもできない。

 もし言い訳が許されるのなら、私は知らなかったのだ。何も知らなかった。人間というものを、他者の持つ自己というものを知らなかった。知らないが故に、犯してしまった。しかし幼いながらにも、悪意は確実に含まれていた。

 しかし私は現在を生きなければならない。でなければ、死ぬしかない。「であれば死ね!」とおっしゃるかもしれない。しかし死ぬことはできなかった。そこで私は決定論を必要とした。過去の罪悪を避けようのない必然的な帰結と捉えることによって、現在の自分を罪人として受け入れて、認めなければならないと考えた。

「それは救いではないのか!」

 個人的見解として、救済と受容は違うものと捉えている。救済とはつまり、罪の喪失、あるいは忘却ではないか。あるいは罪によって引き受けなければならない影響を、ポジティブなものとして変換してしまうことではないか。それが救済ではないか。
 一方受容とは、罪を罪のまま受け入れるということである。私はいつまでも救われないし、今も苦しいままだ。私は死んでも罪人なのだ。それらの重みを引き受けて生きるということが、私という一人の人間に課された必然性であったと、そう考えている。

 「課された」という言葉を使うとまるで一神教のようではあるが、神を失った現代において、我々が実存を取り戻すために必要なのがこの「課された」という意識なのではないかと思っている。あるいは運命、あるいは必然性。だから私は実存主義に惹かれるのだ。しかし決定論とのジレンマも存在する。この辺りは私の今後の課題なので、今は上手く説明できない。話をもとに戻す。

 一度罪を犯してしまったら、死ぬしかないのだろうか。殺人者は死ぬしかないのだろうか。そうなのかもしれない。殺人者と、悪意から他人の心を傷付けた、あるいは踏みにじった人間に、一体どんな違いがあるのだろうか。
 しかし私は生きてしまっている。開き直っているつもりはないが、これは開き直りなのではないか。いや……と言いたいところだが、分からない。開き直りなのかもしれないし、本当は罪を罪とさえ感じていないのかもしれない。分からない。

 その可能性も考慮に入れつつ、現に私は生きてしまっているし、死ぬつもりも今のところない。しかし罪の意識を抱えていることもまた真実であると、私は見なしている。自己というのは極めて複雑であり、原理的に単純化できるはずがない。

 誰もが誰かに迷惑をかけているし、それは人間である以上仕方のないことだ。どうしたって迷惑はかかるのだから、どうしようもない。この「仕方ない」、「どうしようもない」が必然性なのではないか。私が犯してしまった罪は、必然的だったのではないか。私にはそう考えることしかできなかった。

 「仕方ない」として割り切っているわけではない。むしろここまで読んでくれた方なら、全く割り切れていないことが分かるはずだ。「仕方ない」、つまり必然的だったとしても、罪とは割り切れるものではないし、割り切ってはならないものだ。

 だから私は、必然的なものとして捉えることしかできなかった。ただ孤独に反省を重ねることしかできなかった。反省というのは、起きてしまった現象に対してではない。起こしてしまった自己、無知、無自覚、傲慢、暴力、不誠実、それら全てに対してである。
 「反省したって何の意味もない」とおっしゃるかもしれない。たしかにその通りである。しかし一体、他にどうしろと言うのだ。どうしたって私の行為は許されないし、欠けた花瓶はもとには戻らない。現在の私にできることは、反省すること以外には何もないとしか思えないのだ。


 ここまで書いてきたように、決定論的過去受容を取り入れても、救われたり、あるいは楽になったり、あるいは生きやすくなったり、残念ながらそういうことは全く起こらない。ただ私はそう考える以外になかったというだけの話でしかない。

 唯一挙げられる効用としては、罪を犯した自己自身を反省し、現在の自己を意識的に見ることができるようになるということだろうか。同じ悲劇を、他者にとっての悲劇を再度自分が無自覚に引き起こさないようにするためにも、考える必要があると思う。念のために断っておくが、「他人を傷つけてはならない」というような綺麗事を主張するつもりは毛頭ない。そうせざるを得ない場合があるのも、重々承知している。私が言いたいことはつまり、それに対して自覚的か、あるいは無自覚的かということだ。私は自覚せざるを得なかった。そして、これでよかったのだと思っている。「これでよかった」なんて書くとまた、「肯定しているではないか!救済されているではないか!」と私の中の批判者が暴れ出すが、そう思ってしまう自分もいるというのが真実なのだ。自分の無自覚は、自分にしか暴けないのだから。



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