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第24区 第一回

 第24区。上京後まもなく、あずさと周二は二人の部屋をそう名づけた。
最寄り駅はどちらになるだろう。あずさは西荻窪をつかっていた。だが吉祥寺からでも歩く距離に大差はない。とにかく五日市街道に出ればよかった。街道からは武蔵野と東京の丁度境目の路地を南に下りる。
 路地の先では、貧弱な児童公園と並んで木造モルタルのアパートが出迎えてくれる。
 あずさたちは、そこの二階の角部屋を借りていた。
 老いたアパートだった。外壁の緑は埃で青銅色にくすみ、葉を落とした蔦の蔓が力なく這いまわっている。肝心の部屋の中身はさらに覇気がない。八畳間のフローリングは使うたびに疲れたように黴を生やし、キッチンは忘れたころに漏水を起こす。くつろげる場所といえば屈んでしか歩けないロフトの空間だけ。
 そんなささやかでつましいわが家を24番目の区だと、だれが認めてくれるわけもない。
 しかし、周二は譲らなかった。ここは東京でも武蔵野でもない場所。いうなれば僕らだけの東京だ。どこにも属さないし染まりもしない。だから、僕らもここで暮らせばずっと変わらずに、上京以前の気持でいられるのだと。  
慣れない街で自分勝手に傷ついた日々からの逃げ口上、あるいは強がりだったか。それがなぜだか、あずさには心地よく聞こえた。
 やがて周二の宣言を聞きつけた同じ上京者の誰彼が、部屋に集うようになった。
 そこで夜ごと交わされた言葉たちは、夢というにはあまり頼りなく、およそ叶うことない約束の紡ぎでしかなかったが、それでも交わすたびに、あの部屋にはじめての活気を呼んでくれた。
 活気にまぎれてか、部屋の不快も不思議と気にならなくなった。反面、近隣から騒音の苦情を受けた。苦情もまた活気が生んだ暮らしの証だ。いわば二人の存在の証明といってもいい。
 東京でようやくそれを得たと、一堂はなおさら士気を上げた。
 だがいかに活気づいても、あの部屋はやはり老いていた。集まる者を迎えるのに精一杯で、それぞれの若い想いまでは抱え込んでくれない。
 あずさたちもまた老いてしまった。
 想いの一つも形に出来ないまま、瞬く間に三十路を迎えた。行き場のない想いは部屋に溢れかえり、いつか皆、24区にすらも居場所を失くしてしまった。
 あとはもう、あの部屋を出て、いま一度東京と向き合うほかはない。
 だから、あずさも変わろうと決めた。
 24区の誕生からおよそ四年が経った、九月の朝だった。

 最後の夜勤を終えて部屋へ戻ると、周二は出かける前と変わらず、文机の前で胡坐をかいていた。いまの作品に取りかかってからはずっとそう。昼夜を問わず、ラップトップの画面に向かって、祈るように組んだ手を額にあててうつむくばかり。
 あずさも出かける前と同じく、声に出さずその背中に問いかけた。
また煮詰まっているの? それともまた、私ではないだれかのことを思っていたんですか?
 返事はもちろんない。その代わりに周二は問い詰めてきた。仕事を辞めるなんて聞いてない。僕のときはちゃんと相談したぞ。小説に専念したいからって。君は何か目的をもって辞めるのか? 明日からどうするんだ? いまさら僕の稼ぎをあてにはしないよな。候補に残ったといっても、次で結果が出るとはかぎらない。一生次点止まりで終わることの方が多いのだからと。
大丈夫よ。あずさは着替えながら背中で答えた。友だちにもっと割のいい職場を紹介してもらう予定なの。
 周二は肩をすくめてラップトップに向き直る。悪かった。たしかに君の場合はいつでも仕事に戻れるからな。羨ましい。その友だちによろしく云っておいてくれ。
 ねえ聞いて。あずさは画面を覗き込む。だがすぐに手で追い払われた。いつもそう。いまの原稿については、あらすじすらも聞かせてくれない。ずいぶん前に書き出して、中途で投げ出したと聞いたはずだが、毎年夏場になると思い出しようにファイルを開く。
 よほど思い入れがある物語なのだろう。邪魔しては可哀想だ。
 一方であずさは胸を撫で下ろしていた。もしもいま、彼が手を止めて自分と向き合ってくれていたら、すべて打ち明けるつもりでいたから。
着替えながら、あずさはまた口の中でつぶやいた。友だちなんていませんよ。皆、出て行ってしまったじゃない。その彼らも皆、あなたの友だちだったでしょう? でもね、ようやく一人みつけたの。東京に来て、あたしがはじめて自分でみつけた友だちよ。
 しかも男の友だちなの。でも結婚してるの。家庭がある人なの。だけどちゃんと東京で暮らしているの。24区なんて信じていないの。
 あなたはあたしに目的をもって辞めるのかって訊いたよね。そうよ。あたし、明日からその人の世話になるの。だからもう無理に働く必要もないの。部屋も借りてくれたの。
 あたしね、その人と一緒に暮らすの。
 24区ではない、この東京で。
 そして何よりね、あたし、あなたの書く物を面白いと思ったことないの。
 それでも好きだったの。あなたの書く物も、あなたのことも。
 だからほんとうにごめんなさい――。

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