大津光央
読まれるあてのない物語たちです。
大津光央が私的な観点から昭和の偉人を語る連載です。
ライブのMCで云いそびれたこと、云い忘れたことをエッセイに綴っています。
記録によれば、赤い鳥はフォークジャンボリーにも出演歴があるらしい。70年の通称第2回のそれだ。 ただ、何を演奏したかは定かでない。ジャンボリーの同録盤に彼らの曲が収録されていないのだ。未収録は版権の問題だとしても、舞台でのスナップ一枚として公開されていないのはどうだろう。ほんとうに出演していたのか疑いたくなる。 ところが最近、ジャンボリーの現場で赤い鳥を観た、という書き込みを動画サイトのコメント欄にみつけた。 書き込みは二つあった。どちらも女性メンバーの容姿や佇まい
クラシックで身を立てるなら、ドイツにおいてはD聖音楽院で学ぶのが最上とされている。あそこは西欧各交響楽団への推薦に強い。十七世紀創立の伝統がそのまま信用となって根付いているようだ。 だが留学先としての人気は薄い。現地に骨を埋めるつもりのない学生からは、敷居ばかり高く、指導が古典に過ぎるといまだ敬遠されている。 それでもかつて、あそこの弦学科には望月みつ子という日本人女性が学んでいた。一九七三年から一九七五年のことだ。ただし音楽院の在籍記録には残っていない。旧姓の高桑みつ
第一章 かつて作家志望の青年であった父は、あるとき不覚にも、自らが書きかけた物語のヒロインに恋をしてしまった。 募る想いに身を任せ、父は作品世界へ迷い込む。 驚くことに、そのヒロインも父の愛を受け入れてくれたという。 二人が想いを交わしてから、およそ三年後、女の子が生まれた。 「それがお前だ」 父は云った。 「三十五年前の今日のことだ」 書斎でのふいな告白はそこで一旦途切れた。夢叶い作家として名を成したいつかの青年は、還暦も過ぎたいまアームチェアに身を沈め
第24区。上京後まもなく、あずさと周二は二人の部屋をそう名づけた。 最寄り駅はどちらになるだろう。あずさは西荻窪をつかっていた。だが吉祥寺からでも歩く距離に大差はない。とにかく五日市街道に出ればよかった。街道からは武蔵野と東京の丁度境目の路地を南に下りる。 路地の先では、貧弱な児童公園と並んで木造モルタルのアパートが出迎えてくれる。 あずさたちは、そこの二階の角部屋を借りていた。 老いたアパートだった。外壁の緑は埃で青銅色にくすみ、葉を落とした蔦の蔓が力なく這いまわっ
■ 大津君は、小山田圭吾、好きですか? ―どちらでもない、というか知らない笑 ああいう音楽に触れる環境にいなかったから、フリッパーズギターの人、という印象しかないです。 ■ ああいう、とは渋谷系と云われる音楽のこと? ―いまだに知らない笑 そういうのが流行っていたとき、田舎の中学生だったから、自分の中の音楽的な文化と云えば、テレビドラマやバラエティの主題歌ぐらいしかなかったし。 いつか大喜利のイベントに出たとき、渋谷系の何とかっていうお題に僕は渋谷という街のことを絡めて答え
80年代はわが国のプロレスビジネスの隆盛期である。とくに新日本プロレスの人気には凄まじいものがあった。タイガーマスクの登場で会場には客が溢れ、テレビ中継の視聴率は平均20%を記録する。その影響から同団体では前座レスラーですら一部上場企業のサラリーマン以上の高給が保障されていた。 プロレスを就職先として選んだ長州にとって、文句のない待遇だ。そこに甘んじてもよかった。甘んじられないとすれば、それは彼にレスラーとしてのプライドがある場合だ。 長州にはまだそれがなかった。むしろ
格闘技からプロレスに転向するなら、デビュー後はまずヒール(悪役)を演じる方がいい。 ヒールにはセールする場面が少ないからだ。 セールとは、相手からの攻撃による衝撃や痛みを動きや表情をもって観客に訴えることをいう。それをうけて観客は試合に感情移入する。頑張れ、あるいはそのままやっつけてしまえと叫び、足を踏み鳴らす。様々なエールが交差し、それが熱気となって試合を盛り上げる。セールはプロレスに必須のスキルといえる。 一方で格闘技にはセールがない。というより、してはいけない。
音楽のマイナーシーンにおいては町々にカーストが形成されていて、そのトップにいる連中はおよそルックスと音感が貧しい。どちらもメジャー市場の商品足りえない特性である。それらを兼ね備えた彼らは他の演者を褒めない。むしろ徹底的に周囲を腐す。褒めるのは自身と同様にルックスと音感に貧しい者にかぎられる。安心するのだろう。貧しい者たちは抜けがけをしない。できない。こちらにコンプレックスを与えない。与えられない。むしろ適度に見下していられる。与えてくれるのは優越感のみ。 貧しき者がヒー
落合博満は運が良い。彼はその全盛期をロッテオリオンズと中日ドラゴンズで過ごした。彼の試合は全国中継されない。ニュースでは結果しか報じられないことも多かったろう。試合のリポートがされても、彼が取り上げられるのは打点をあげた場面にかぎられていたはずだ。 となれば、およそのプロ野球ファンにとって落合博満とは「よくわからないが本塁打をよく打ち、高打率をあげてたくさんタイトルを獲った人」という印象しか残らない。 今日、そして往年のファンの多くが落合のプレースタイルの真実を知ら
喫煙者の僕と大瀧社長は、いつも座の端に席をとっていた。 もう7年ほど前になる。 その日、僕らのテーブルに本が回ってきた。 推理小説のガイドブックだ。 和洋合わせて200ほどのタイトルが紹介されている。 どうしたものかなと二人で所在なくページをめくっていると、ふいに声が聞こえた。 「それ全部読んでないと話になりませんよ」 つづいて聞こえてきたのは、お追従の嘲笑の群れ。 僕はだまってうつむいた。声が出なかった。そのかたわらで、社長はだまって煙草に火をつけた。 そ
長嶋茂雄が野村克也という野球人をあらためて意識し始めたのはおそらく、1991年のシーズン中のことだったろう。 それまではといえば、長嶋は野村を歯牙にもかけなかったに違いない。 延々と陽の浴びながら大通りを闊歩してきた者が、街路樹がつくる影の模様をいちいち気に留めたりはしない。長嶋にとって野村は、その影に巣食うテスト生上がりの一個性派選手に過ぎず、自分と同じ土俵で語られる存在ではありえなかった。 だがその91年のシーズン、野村率いるヤクルトスワローズは11年ぶりの