桑野隆「生きることとしてのダイアローグ バフチン対話思想のエッセンス』

「他者の意識を相手にして可能なのは、対話的に交通することだけである。他者の意識について考えることは、すなわちそれらと語り合うことである。さもなければ、それらはすぐさまこちらに客体としての側面を向けてよこすことだろう。そしてだまりこみ、自己を閉ざし、凍りついて、完結した客体イメージになるだろう」 (バフチン)

「ポリフォニー的アプローチは、(教条主義にたいしてと同様)相対主義にたいして何の共通点も有していない。相対主義も教条主義も、あらゆる議論、あらゆる真の対話を排除しており、そうしたことを不必要なものにしたり(相対主義)、不可能なものにしている(教条主義)」(バフチン)

「言葉とは、わたしと他者とのあいだに渡された架け橋である。その片方の端をわたしがささえているとすれば、他方の端は、話し相手が支えている。言葉とは、話し手と話し相手の共通の領土なのである」(バフチン)

「モノローグ主義は、みずからの外部に、対等な権利をもち対等に応答しようとするもうひとつの意識、もうひとつの対等な(わたし)(<なんじ>)が存在することを否定する。モノローグ的アプローチのさいには<他者>は、もう一つの意識ではなく全面的に意識の対象に過ぎないままである。モノローグは完結しており、他人の応答には耳を貸さず、応答を待ち受けず、応答が決定的な力をもつことを認めない。モノローグは、他者なしですまそうとしており、またそれゆえに現実全体をある程度モノ化している。モノローグは、最後の言葉であるかのように振る舞う。モノローグは、描かれた世界や描かれた人々を閉じ込める」(バフチン)

「ひとつの意識とは、形容矛盾である。意識は本質的に複数からなるのである。意識には複数形しかない」(バフチン)

「自意識は言葉なしにはありえないが、言葉というものはその本性からして他者にとって存在しており、開かれたり理解されたりしようとしている。いかなる意識も、いかなる自意識も他者なしにはありえない。孤独な意識というのは、幻想ないし虚偽である」(バフチン)

「ひとつの意識とは、形容矛盾である。意識は本質的に複数からなるのである。意識には複数形しかない」(バフチン)

「自意識は言葉なしにはありえないが、言葉というものはその本性からして他者にとって存在しており、開かれたり理解されたりしようとしている。いかなる意識も、いかなる自意識も他者なしにはありえない。孤独な意識というのは、幻想ないし虚偽である」(バフチン)

「真理やそれをめぐる人びとの思考はもともと対話的であるというソクラテスの考えがある。真理を探求する対話的方法が、既成の真理を所有していると自負する公式のモノローグ主義に対置されており、自分たちはなにかを知っている、すなわちなんらかの真理を有しているとおもっているひとたちのナイーヴな自信に対置されていた。真理は個々人の頭のなかで生まれたり、そこに存在したりするものではない。真理は、ともに真理を探求する人びとのあいだで、またそうした人びとの対話的交通の過程で、誕生するのである」(バフチン)

「哲学的モノローグ主義の土壌では、意識どうしの本質的な相互作用は不可能であり、したがって本質的な対話は不可能である。じっさいには、観念論は意識間の認識的相互作用のひとつの種類しか知らない。知っている者、真理を所有している者が、知らない者、誤っている者に教える、すなわち教師と生徒の相互関係、またしたがって教育的な対話である」

「〈ソクラテスの対話〉は、完全に修辞学的な対話とも、悲劇の対話とも異な っている[…]。思考や真理が本質的に対話的であることをソクラテスが発見したというまさにそのことが、対話にくわわった人びとのあいだの関係のカーニヴァル的な無遠慮さや、 人びとのあいだのあらゆる距離の撤廃を前提にしているのである。さらには、いかにそれが高尚かつ重要なものであれ思考の対象そのものへの、そして真理そのものへの関係の無遠慮さを前提としているのである」(バフチン)

「〈内的に説得力のある言葉〉は、「なかば自己の、なかば他者の言葉」です。自分と他者のあいだで生成している言葉です。だからこそ、あたらしい「思考」や「言葉」を呼び起こしてく れます。外部からの押しつけではなく、内部からわたしたちの言葉を刺激してくれるのです。 教育に必要なのは、このような言葉のはずです。また実際、そのような言葉を実践の場でいかに活かすべきかを真剣にかんがえている教師たちもすくなくありません。」

「内的に説得力のある言葉の意味構造は、完結したものではなく、開かれたものである。内的に説得力のある言葉は、自己を対話化するあたらしいコンテクストのなかにおかれるたびに、あたらしい意味の可能性をあますところなく開示する力を有している。」

「あらゆる発話は、受け手をつねにもっており、その応答的理解を言語作品の作者はさがしもとめ、予見している。これ は〈第二者〉である。 […] しかしこの受け手のほかに、発話の作者は、自覚の程度はさまざまであれ、〈高次の超・受け手〉を前提にしており、その絶対的に公正な応答的理解が形而上学的なかなたや遠い歴史上の時間のなかに前提とされている。時代や世界観しだいで、この超・受け手はさまざまに具体的にイ デオロギー的に表現される(神、絶対的真理、公平な人間的良心の裁き、民衆、歴史の裁判、科学、その他)。 […] どんな対話も、対話の参加者(パートナー)の上方にいる不可視 の〈第三者〉の応答的理解を背景としているかのようにおこなわれる。」(バフチン)



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