E.H.カー『危機の二十年 理想と現実』
「健全な政治思考および健全な政治生活は、ユートピアとリアリティがともに存するところにのみその姿を現すであろう」
「国家間、階級間、あるいは個人間の平和と協調こそ、利益や政治の対立にかかわりの ない共通かつ普遍的な目的であるという意識は存在する。 たとえそれが国際の秩序であれ、国内の「法と秩序」であれ、ともかく秩序維持のなかに共通の利益があるという感 慨は、確かに存在する。しかし、こうした抽象的原理を具体的な政治状況に適用しようとするや否や、これらの原理は利己的な既得権益のみえすいた仮装として白日のもとにさらされるのである。
ユートピアニズムの破産は、ユートピアニズムがみずからの原理を実践できなかったという点にあるのではない。ユートピアニズムの破産は、ユートピアニズム自体が国際問題の実践にあたって絶対的かつ私心のない規準を用意できないことを露呈したという点にある。」
「あらゆる健全な政治的思考はユートピアとリアリティ双方の諸要素に基礎づけられなけ ればならない、ということである。ユートピアニズムがうわべだけの耐え難いまがいもの――それは単に特権階級の利益の隠れ蓑として役立つのだが――となった場合、リアリストは、ユートピアニズムの仮面をはぐのに必要不可欠の役割を演ずる。しかし純粋なリアリズムは、いかなる国際社会の成立をも不可能にする露骨な権力闘争をもたらすだけである。今日のユートピアをリアリズムの武器でもって粉砕した暁には、われわれはさらにみずからの新しいユートピアを築く必要がある。もっとも、この新しいユート ピアも、いつかは同じリアリズムの武器によって倒されるであろう。人間の意志は、国際秩序のヴィジョンに関してリアリズムが引き出す論理的帰結から何とか逃れようとするだろう。なぜならこのヴィジョンは、それが具体的な政治形態として明確な形をとるや否や自利と偽善に汚染され、かくしてまたもやリアリズムの武器によって攻撃されるからである。」
「人間はつねに集団のなかで生きてきた。最小の人間集団、すなわち家族が種の保存にとって必要不可欠であることは明らかだ。「しかしわれわれが知る限り、人間は最も原始的な時代から、単一の家族よりももっと大きい半恒久的な集団をつねに形成してきた。 このような集団の役割の一つは、成員間の関係を統制することであった。政治は、こうして組織された恒久ないし半恒久的な集団における人間行動を扱う。孤立している人間の行動と考えられるものから社会の本質を推論しようとする試みはすべて、純粋に理論的なものである。なぜなら、そのような人間がこれまでに存在してきたと考える根拠は ないからである。アリストテレス [Aristotelés 384-322 B.C.〕が、人間は生まれながらにして政治的動物であるとのべたとき、彼は政治についてのあらゆる健全な思考の基礎を築い たのである。」
「強制と良心、憎悪と善意、自己主張と自己抑制はあらゆる政治社会に厳としてある。 国家は人間性のこれら相反する二つの側面から形成されている。ユートピアとリアリティ、理想と制度、道義と権力は最初から国家のなかに分かち難く溶け合っている。」
「第一次大戦後、自由主義の伝統は国際政治の分野に広められていった。英語圏諸国の ユートピア的論者たちは、国際連盟の設立こそが国際関係から権力を除去し、陸海軍の時代を論争の時代へと代えていくのだ、と真面目に信じていた。「権力政治」は不健全な旧時代の特徴とみられ、悪口の言葉となった。こうした確信が十年以上も持続しえたのはなぜか。それは強国―その主な利益は現状の維持にあったが―この時代を通じて事実上権力独占をほしいままにしていた、という事情によるものである。」
「権力が政治の本質的要素であることを理解できなかったまさにそのことによって、国 際統治の形をつくろうとする試みはこれまですべて挫折してきたし、この問題を議論しようとする試みもまたほとんどすべて混乱に陥った。権力は統治の不可欠の手段である。 いかなる現実的な意味においても、統治を国際化するということは、すなわち権力の国際化を意味する。とはいえ国際統治は、実際には、統治に必要な権力を提供する国家による統治ということになるのである。」
「国際分野における政治権力は、ここで議論するためには、次の3つのカテゴリーに分類されよう、(a)軍事力、(b)経済力、(c)意見を支配する力、である。」
「軍事的手段が最高度に重要であるのはなぜか。その理由は、国際政治における権力の最後の手段が戦争である、という事実にある。」
「対外政策への民主的統制が抱える最も重大な問題は、 どんな政府にも、自国軍事力に関する詳細かつあからさまな情報や、他国軍事力に関する知識すべてを明らかにする余裕などは、とうていありえないということである。したがって対外政策に関する国民的論議は、 同政策の形成に決定的となる諸要因の一部ないしすべてを国民が知らないまま展開されるわけである。」
「軍事力は国家の生存にかかわる本質的要素であり、それは単に手段となるばかりでは なく、それ自体一つの目的ともなる。過去百年間の重大戦争のうち、貿易や領土の拡大を計画的、意識的に目指して行なわれたという戦争はあまりない。最も重大な戦争は、 自国を軍事的に一層強くしようとして、あるいは、これよりもっと頻繁に起こることだが、他国が軍事的に一層強くなるのを阻止するために行なわれる戦争である。だからこそ「戦争の主たる原因は、戦争それ自体である」という警句には大いに正当性がある、 というわけである。」
「一九二四年ソヴィエト政府が国際連盟に提出した文書は、一九〇四ー〇五年の日露戦争の始まりについてこうのべている。『一九〇四年日本の魚雷艇が旅順港でロシア艦隊を攻撃したとき、そ れは技術的観点からすれば明らかに攻撃的行為であったが、しかし政治的にいえば、日本に対するツァー政府の侵略的政策によって引き起こされた行為であった。日本は危機を事前に防ぐために敵に先制の第一撃を加えたのである』」
「こうして戦争は、主要戦闘国すべての胸中においては防御的ないし予防的性格を持つものであった。これらの国は、将来の戦争で自国が一層不利な立場に立たないようにするため戦ったのである」
「権力の行使がつねに更なる権力欲を生むようにみえるのは、多分このためである。 ニーバー博士がのべているように、『生存への意志と、権力への意志とのあいだに、明確な一線をひくことは、不可能』である。国家の団結・独立という形でその最初の目的を達成したナショナリズムは、ほとんど自動的に帝国主義へと向かっていく。「人間というものは、すでに持っている物に加えて、さらに新しい物が獲得できるという保証があるときでないと、物を持っているという安心感にひたれない」というマキアヴェリの警句は、国際政治の現実によって十分証明されている。そして、人間は「かれが現在もっている、よく生きるための力と手段を確保しうるためには、それ以上を獲得しなければならない」というホッブズの警句もまた、同じである。安全保障という目的のために始められた戦争は、たちまち攻撃的、利己主義的になるのである。」
「経済的諸力は、実際には政治的諸力である。」
「経済学は一定の政治秩序を前提としており、政治から分離して経済を研究しても何の益にもならないのである。」
「問題はもはや、人びとがみずからの意見を表明する政治的自由をもっているかどうかではない。問題は、意見表明の自由というものが、多くの人びとにとっては無数の宣伝形態―これらはあれやこれやの既得権益の命ずるところによって決められる―の威力に左右されること以外に何か意味をもっているのかどうか、ということである。全体主義国では、ラジオや出版や映画は、政府の完全管理下にある国営産業である。民主主義国では、状況はそれぞれ異なってはいても、あらゆるところで中央集権的統制の方向
へと進んでいる。」
「人間性についての基本的な事実としていえるのだが、人間は力が正義をうむのだという教義を結局のところ拒むのである。」
「いかにそれが限定的なものであろうと、またいかにそれが弱々しいものであろうと、国際的な共通理念の根幹ともいうべきものーわれわれはこの理念の根幹に訴えるのだがーが存在すること、そしてこれら共通理念がともかくも国益を超える価値基準にかなっているのだ、という信念が同じく存在するということである。この共通理念の根幹こそ、われわれのいう国際的道義の意味なのである。」
「国家人格および国家責任という仮説は、真実でもなければ虚偽でもない。なぜならこの仮説は、みずからが事実であると主張しているのではなくて、国際関係を明快に考察するのに必要な思考のカテゴリーだるとしているからである。
「あらゆる法の背後には、必ずその政治的背景が控えている。法の究極の権威は、政治に由来するのである」
「一九一四年以前には国際法は、現行国際秩序を変革するために戦争に訴えることを非合法として非難することはなかった。というのは、戦争以外の方法で変革をしようとしても、そのために合法的機関が設置されるということはなかったからである。一九一八 年以後、「侵略」 戦争を非難する世論がほぼ全世界に広がり、しかも世界のほとんどすべての国家は、政策手段としての戦争を放棄する条約に署名した。したがって、現状を変える目的で戦争に訴えることは、今日では通常、条約義務の不履行ということになり、 それゆえ国際法上違法なのである。しかし一方では、平和的手段によって変革をもたらすために何か有効な国際機構がつくられた、ということもなかったのである。」
「難題は依然として残されている。国内的にも国際的にも、政治的争点は法的 権利の争点よりもはるかに厄介である。
戦争以外の手段 によって国際社会に変更を加えることは、現代国際政治における最も死活的な問題である。その第一歩は、仲裁ないし司法手続きの袋小路―ここではこの問題の解決策はみ あたらないーから抜け出すことである。この一歩を踏み出すことによって、われわれは他の、そして恐らくはもっと有望な道を通って問題解決へと近づいていくことができるのである。」
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3Hiroshi Kawai、め ぐみ、他1人
「道義の規準は、戦争が「侵略的」性格を帯びているのかそれとも「防御的」性格をもっているのかということではなくて、追求されたり抵抗されたりしている変革がいかなる性質のものか、というところに置かれなければならない。」
「とはいえ、誰でも、戦争と革命がそれ自体望ましくないという点では一致するだろう。国内政治にあっては、「平和的変革」の問題とは、すなわち、革命を経ずに必要かつ望ましい変革をいかに果たすかということであり、国際政治にあっては、戦争を経ずにこうした変革をいかになし遂げるかということなのである。」
「平和的変革は、正義についての共通感覚というユートピア的観念と、変転する力の均衡に対する機械的な適応というリアリスト的観念との妥協によって初めて達成される、ということである」
「一九二〇年代の蜃気楼は、呼び戻すことのできない一世紀前の 旧い残像でしかなかった。一世紀前は、領土と市場が絶えず拡大する黄金時代であった。 それは、自信満々であるがゆえにそれほど重荷にはならない、あのイギリスの覇権が管理した世界の黄金時代であった。それはまた、 ともに発展・開拓していく領域の漸進的拡大によって対立が中和されるという、統合された 「西洋文明の黄金時代であった。
そして最後にそれは、一個人にとっての利益がすべての人にとっての利益であること、 経済的に正しいことが道義的に悪ではありえないという、安易な仮説の成り立つ黄金時 代でもあった。」
「必要とされる新しい調和は(自由放任主義の哲学者たちが考えたような)個人間の平等ではなく、また(マルクスが個人間の調和の実現可能性を否定したときに考えたような) 階級間の調和でもなく、国家間の調和であった。今日われわれは、マルクスがかつて社会的階級について犯した誤りを繰り返してはならない。つまり、国家を人間の究極 の集団単位として扱うその愚を犯してはならないのである。」
「一九三九年の再軍備の危機は、たとえそれが戦争を経ることなく過ぎ去ったとしても、社会・産業構造における変化―それは戦争そのものによってもたらされた変化に比べれば革命的ではないのだが― をあらゆるところで引き 起こしたであろう。この革命的な出来事の本質は、政策の価値を判断する材料としての 経済的利益を放棄することである。雇用は利潤よりも、社会的安定は消費の増大よりも、そして公平な分配は生産の極大化よりもそれぞれ重要になったのである。 」
「権力が国際関係を全面的に支配する限り、軍事的必要性に他のあらゆる利益が従属し、まさにそのことが危機を増幅させ、戦争それ自体につきまとう全体主義的性格の前触れとなるのである。ところが、いったん権力の問題が解決され道義がその役割を回復すると、状況に希望が生まれてくる。
経済的利益を社会的目的に従属させることを率直に受け入れること、そして経済的利益は必ずしも道義的によいものとは限らないと認めることが、国内分野から国際分野へと広がっていかなければならないのである。
国家の経済から利潤動機を次第に排除していくことは、いずれにしても、対外政策からこの利潤動機を一部除外するという流れを促すことになる。一九一八年以後、イギリス政府もアメリカ政府も若干の窮乏国家に「救済信用」を与え、しかもここから経済的見返りを本気で期待するなどということは決してなかったのである。輸出産業振興のための外債は、多くの国では戦後政策の一般的な特徴であった。その後この政策は拡大し ていくが、それは主として軍事的要件に迫られてのことである。しかし、もし権力危機 が解決されるなら、この政策が他の目的のために展開されてならない理由はないのであ る。
われわれが政治的理由から非生産的な産業を助成すればするほど、また、経済政策目的とし この利潤極大化に代わってまともな雇用状況を整備するようになればなるほど、 さらにはわれわれが社会的目的のために経済的利益を犠牲にする必要を思い知れば知る ほど、次のようなことを理解するのはそれだけ容易になると思われる。すなわち、これ 社会的目的が国境によって制約されるというのはありえないこと。
国家政策についてわれわれの視野を広げることは、国際政策に関するわれわれの展望を広くするのに役立つはずである。
これもまた、ある種のユートピアである。しかしそれは、世界連邦のヴィジョンや、 より完璧な国際連盟の青写真に比べて、より直接的に新しい進歩の方向を指し示してい る。」