子安宣邦『天皇論 「象徴」と絶対的保守主義』

天皇とその朝廷が日本の政治権力的世界の中心にはっきりと存在したのは歴史上わずかな時期にしか過ぎない。にもかかわらず日本史が天皇的日本史として塗り直されていったのは、日本の近代国家としての成立が「王政復古」をスローガンとした明治維新によってなされていったからである。そしてこの「王政復古」の天皇主義的革新を導くように日本の歴史観と国家観とを天皇主義的に再形成したのは本居宣長の国学的言説であり、会沢正志斎らの水戸学的言説であったのである。

「天皇」をめぐる文章も言辞も宣長と同時代の人びとの初めて目にし、口にするものであっただろう。「天皇」は18世紀江戸社会の人びとにこのような言辞と語り口とをもって登場してきたのである。

このことは宣長国学における<天皇語>というものの後世的に作られた異様な古さを言うものであって、本来的な古さをいうものではない。

宣長の国学上の先駆である契沖や賀茂真淵のテキストに万葉主義的な言語はあっても宣長におけるような<天皇語>を見ることはない。このことは『直毘霊』に見るような<天皇語>は『古事記』とその「天皇神話」的テキストの初めての忠実な注釈者である宣長によってのみ可能な<天皇とその古えを語る言語>であったことを教えている。

歴史上に「天皇」が呼び出され、人びとにとって「天皇」が存在するようになるのもこの宣長の<天皇語>の成立と同時だろうと考えるからである。

宣長天皇論が18世紀の徳川日本という歴史的な世界に反中国的な民族主義的な<イデオロギー的構成物>として成立したことである。

宣長天皇論は反中国的ナショナリズムの表現としての歴史的イデオロギー性をもつとともに、その天皇論自体を天下国家の興亡を担う統治者論としてではなく、この国家の永続性を体現する神聖な統治者論として展開させる。これは近世日本の現実的な政治的統一者である徳川将軍とその幕府の統治下にある日本の天皇論だということである。

明治維新を薩長両藩による封建反動というべき政権奪取のクーデターと見る津田(左右吉)は、この「王政復古」のスローガンに倒幕派とその運動の私的性格を隠す偽りの名義を見ることになる。幕末に至って「誤った勤王論が一世を風靡し、その結果、いわゆる王政復古が行われて、皇室を政治の世界に引き下ろし、天皇親政というがごとき実現不可能な状態を外見上成立させ、従ってそれがために天皇と政府を混同させ、そうしてかえって皇室と民衆とを隔離させるに至った」と津田はいうのである。こうして、「王政復古」は明治政権の恣意的な権力行使を許す根拠にさえなったのである。

「『古事記』と『日本書紀』にはさまざまな差異があるが、どちらも朝鮮半島をふくむ帝国秩序を表現する神話・歴史書であった。『天皇』は、『新羅王』や『百済王』等よりも上位の『皇帝』レベルの王権として創出られた。『天』や『日』の思想は、『王』のレベルの『倭王』から『皇帝』レベルの『天皇』への上昇をささえるものであった。これは中華帝国の『皇帝』によって冊封をうけた『倭王』としての痕跡を消し去りながら、朝鮮半島の王朝への優越を誇示しようとするものである」と。

18世紀東アジア世界における日本の宣長による『古事記』の解読と万世一系の天皇の読み出しは古代東アジアにおける「天皇」号の創出という日本の歴史経験を18世紀東アジア世界で繰り返すものである。東アジアにおける「天皇」号創出という歴史的国家体験とは「皇国」として他国に対する優越体験である。18世紀東アジア世界における日本の宣長による古事記』の解読と万世一系の天皇の読み出しは、「漢」に対する全的批判が伴われるが、宣長において顕著なのは激しい「韓」批判がなされたことである。

「親政的」であるか「象徴的」であるかを問わず、天つ神につらなる「天皇」とは「皇帝」に並ぶ帝国の中心的統率者の称である。この「天皇」を「象徴的」とはいえ内なる民族的統合者として持ち続ける日本人がアジアの近隣諸国とその国民との間に真の友愛関係を築くことは難しい。

近代日本の天皇的帝国としての日本は中国や韓国に対するこの否定的貶視とともに形成されるのである。

20世紀日本の天皇を語るとき、中国をはじめアジア諸地域にアジア太平洋戦争がもたらした巨大な被害・犠牲をぬきにして語ることはできないということである。だが日本に徹底的に内在化させて天皇とその来歴を語る坂本(多加雄)からアジアの日本帝国の天皇を見ることは全くない。坂本は20世紀世界におけるドイツ・ナチスの行動は異常であっても、日本の行動は異常ではないとしてこういうのである。

私は前に「この憲法の『国民主権』の成立にまで天皇的配慮の来歴を読むほどの坂本の思い入れに私は驚きよりもむしろ怖れを感じる」と言った。怖れとは帝国天皇がアジアとこの国にもたらした恐るべき負の刻印が歴史からも人の記憶からも失われることへの恐れである。




いいなと思ったら応援しよう!