デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』

フランスの社会を間近で観察したアメリカ先住民たち は、みずからの社会との差異の核心を理解するようになった。じぶんたちの社会では、富を他者に対する権力に変えるはっきりした方法がなかった(そのため、富の格差は個人の自由にほとんど影響 しなかった)のに対し、フランスでは状況がまるっきり異なっていた。そこでは、財産をわがものにする権力を、 他の人間に対する権力に直接に転換させることができるのである。

ルソーは、文明化したヨーロッパ人が概して残虐な生き物であるというカンディアロンクの見解に本質的に同意しており、所有が問題の根源であることにも同意している。ただ、二人のひとつのーーそして大きなーーちがいは、ルソーがカンディアロンクとは異なり、所有以外のものに基礎をおいた社会をまったく想像できないという点にある」

「カンディアロンクのような(ネイティブ)アメリカ人にとって、個人の自由とコミュニズムのあいだには何の矛盾もなかった」

「(ネイティブ)アメリカ的な観点からすれば、個人の自由は、あるレベルの「基盤的コミュニズム」を前提としていた。というのも、つまるところ、飢えていたり、吹雪のなかで適当な衣服やそれを避ける居場所をもたない人間は、生存の努力でせいいっぱいになるため、実際にはなにも自由にできないからである」

「対照的に、ヨーロッパにおける個人の自由の観念は、私的所有の観念と不可避に結びついていた。 法的には、なによりも子供や奴隷をふくむ動産や資産にはお好みのままなんでもなしえた古代ローマの男性家長の権力にまで遡る。このような観点からすれば、自由とはつねにーーすくなくとも潜在的にはーー他者を犠牲にしても行使されるものとして定義される。さらに古代ローマ(および近代ヨーロッパ)の法律では、世帯の自給自足が重視されていた。したがって、真の自由とは、根本的な意味での自律、すなわて、意志の自律のみならず他の人間(自律の直接の支配下にあるものをのぞく)に何ら依存しないことを意味していたのである。

これこそが政治の本質であるというものである。すなわち、自分の社会の取りうる方向性を意識的に考え、ほかならぬこの道を選ぶべきであるのはなにゆえかを公然と議論する、このような能力である。この意味で、アリストテレスが人間を『政治的動物』と表現したのはただしかったと言える。他の霊長類はけっしておこなわないものは、まさにこの『政治』なのだから」

「人間の思考は、本来、対話的なものなのだ。古代の哲学者は、このことをよく認識していた。だから、中国でもインドでもギリシアでも、哲学者は対話形式で書物を書く傾向があった。人間が完全に自己意識をもつのは、たがいに議論を交わし、意見をぶつけ合い、共通の問題を解決しようとする時である。ところが、個人の真の自己意識は、ひとにぎりの思慮深い賢者が、長きにわたる研究、実習、鍛錬、瞑想によって達成できるものとしてイメージされているのだ。

 つまりわたしたちがいまここで「政治的意識」と呼んでいるものこそが、最初にやってくるとつねにみなされていたのである。

人類がその歴史の中で、さまざまな社会的組織法のあいだを柔軟に往復し、定期的にヒエラルキーを構築したり、解体したりしてきたのであれば、真の問いは『なぜわたしたちはへいそくしてしまったのか?」ということになるはずだ。なぜわたしたちは単一のありように帰着してしまったのか? かつてのわたしたち人類がもっていた政治的自己意識は、なぜ失われてしまったのか? わたしたちは、なぜ、地位や従属を、いっときの便宜的手段とか、威風堂々たる季節的演劇としてではなく、人間の条件の不可避な要素としてあつかうようになったのだろうか? わたしたちが最初はただのゲームとしてはじめたのだとして、いったいどの時点でそれがゲームであるということをわすれてしまったのだろうか?」

「みてきたように、わたしたちの遠い狩猟採取民の祖先は、社会形態をめぐって、より大胆に実験をおこなっていた。みずからの社会をさまざまなスケールで、しばしば根本的に異なる形態、異なる価値のシステムをもって、分解しては再構築していたのだ。ユーラシア大陸、アフリカ大陸、アメリカ大陸の偉大な農耕文明の祝祭暦は、その世界とそれにともなう政治的自由の遠い反響に過ぎないことがわかる。

農耕の導入が、私有地の所有や領土の確立、あるいは狩猟採集民の平等主義からの脱却の地点を画していた、などと考える根拠はないのである。

農耕が考案されたのは、ほかに手立てがないばあいのみだったのである。だからそれは、野生資源の最も乏しい地域で最初に着手される傾向にあったのだ。農耕は初期完新世のもろもろの戦略のなかでは異端児だった。ところが、穀物栽培に家畜がくわわって以降はとりわけ、爆発的な成長を秘めていた。

巨大な社会的単位は、ある意味では、つねに想像上のものである。友人、家族、隣人など、実際に直接見知っている人や場所とのかかわりかたと、帝国、国家、大都市など、概して頭のなかに存在する現象とのかかわりかたのあいだにはつねに根本的区別が存在している。社会理論の多くは、経験のこの二つの次元を調和させようとする試みであるとみなすことができるだろう。

すべての証拠は、以下を示している。ティオティワカンは、先史時代のウクライナやウルク時代のメソポタミア、青銅器時代のパキスタンの都市とおなじように、その権力の絶頂期に、支配者なしでみずから統治する方法を発見した、と。しかし、ティオティワカンは、それらとはまったく異なる技術的基盤をもち、さらに大規模なものだったのだ」

「パストリーの見解では、ティオティワカンは、同時代のそれ以外のメソアメリカの社会とはどのように異なる社会であるかを表現するために、新たなる芸術的伝統を創造した。それは支配者と捕虜という視覚的表現とともに一般的な貴族の美化をも拒絶したのである。ティオティワカンの視覚芸術がなにかを称えているとすれば、それは共同体全体とその集合的価値体系であった。そして、それによって数世紀にもわたって『王朝的個人崇拝』の出現の阻止に成功したのだとパストリーは主張する。

この5000年ものの人類史について、これまでのわたしたちの世界史のヴィジョンは、都市や帝国、王国のモザイクによって構成されるのが常であった。しかし、実際には、この時代のほとんどの期間、これらは政治的ヒエラルキーを備えた例外的島々であり、その周囲にははるかに大規模なテリトリーが広がっていたのである。

「より正確に理解された文明の中核に、女性、女性の仕事、女性の関心事と女性による革新があることがわかる」

「これまで『文明』と呼ばれてきたものは、実は、女性を中心とした以前の知的体系を、男性がジェンダー的に流用し、その主張を石に刻み込んだものにすぎないのかもしれない」

「野心的な政治の拡大と少数の人間への権力の集中が、暴力的な従属とまではいかないまでも、女性の周縁化をともなうことが多いことを指摘した」。

「クレタ島の宮殿は非武装であった。ミノアの芸術には戦争のイメージはほとんどあらわれず、遊びや快適な生活への配慮の場面へのこだわりがみられる」

「これらはすべて、わたしたちのいう意味での『政治』、つまりデンプシーのいうところの『自己永続的で、権力を渇望するエゴ』をおどろくほど欠いている」

「すなわち『儀礼によって誘発される個体性からの解放と、あからさまにエロティックであると同時にスピリチュアルな存在のエクスタシーであり、個人を育むと同時にはるかに超越する宇宙は、不可分である性的エネルギーとスピリチュアルな顕現とともに振動しているのである』。ミノアの芸術には英雄は存在しない。存在するのは戯れ人のみである。宮殿のクレタ島は、『ホモ・ルーデンス』の地だった。あるいは、もっと正確には、『フェミナ・ルーデンス(遊ぶ女性)』といったほうがいいかもしれない」

「わたしたちがある程度の確信をもっていえるのは、一六世紀以降にヨーロッパからの侵略者が遭遇した社会は、何世紀にもわたる政治的対立と自覚的な議論の産物であったということだ。それらの社会は、その多くが、自覚的な政治的議論をおこなう能力そのものを、人間の最高の価値のひとつと考えていた社会だった」
「のちのヨーロッパの著述家たちは、かれらを無垢なる自然の子として好んで想像したが、北アメリカの先住民たちは、実際には長きにわたる独自の知的・哲学的伝統の後継者であった。そして、それは、ユーラシアの哲学者たちとはまったく異なる方向にかれらを導き、ヨーロッパのみならずあらゆる場所で、自由と平等の観念に深遠なる影響を与えることになったのである」

北アメリカの事例は、従来の進化論的なスキームを混沌に突き落とすにとどまらない。「国家形成」なる罠にはまったらもはや脱出できない という見方の誤りをはっきりと示しているのである。

フランスの啓蒙思想家たちに多大 なる影響を与えた、個人の自由、相互扶助、政治的平等と いった先住民の教義は、(啓蒙思想家たちのおおかたの想定とは 異なり)自然状態にある人間すべてがかようにふるまうといったお話ではないことだ。

移動すること、服従しないこと、社会的つながりを再構築する ことといったかたちの自由が存在すること、そしてそれは、従順たるべく特別に訓練されていない人間にとっては (たとえば、この本を読んでいる人はそうである可能性が高い)、ごく自明とみなされる傾向にあるということである。それでも、ヨーロッパからの入植者が遭遇した社会、そしてカンディアロンクのような思想家が表明した理想は、特定の政治の歴史の産物としてはじめて理解できるのだ。

世襲的権力、啓示宗教、個人の自由、女性の自立といった問題が、いまだに自覚的な討議の対象となっていた歴史であり、すくなくともその三世紀のあいだ、全体的な方向性としてははっきりと反権威主義的であった歴史である。

北アメリカ先住民は、農耕からはじまって強大な国家や帝国の台頭にいたる道筋は必然的であるとみなす進化の罠をほぼ完全に回避することができただけではなく、そうすることで、最終的には啓蒙主義の思想家たちに深い影響を与え、そして、かれらを通じて今日もなお、わたしたちのもとになる政治的感性を育んだのだ。




いいなと思ったら応援しよう!