A・ミラー『魂の殺人 親は子どもに何をしたのか』

「私が教育は有害だと確信しているのは以下の経験によります。

子どもの教育に対する忠告とか提言といったものは、いずれも多かれ少なかれ、さまざまな種類の大人の欲求の現れであることは疑う余地がありません。

このような大人の欲求を満足させても、子どもの 生き生きとした教育の役に立つどころか、かえってその妨げになります。

それは残念ながら、大人の側が 、心から自分は子どものためにやっているんだと確信している場合でも結局同じことです。

この欲求には以下のものが含まれています。

第一に、かつて自分が味わわされた屈辱を他人に味わわせてやりたいという無意識の欲求。

第二に、表に出すことなく回避し、せき止め続けてきた衝動のはけ口を見つけようとする欲求。

第三に、自分の思う通りになり、思うままに操ることのできる生きた対象を所有したいという欲求。

第四に、自分自身の防御、すなわち、自分自身の子ども時代と自分自身の両親の理想化を保持したいという欲求。 これはつまり、自分の教育方針の正しいことを証明し、それによって自分の両親の方針が誤っていなかったことをも証明しようとするものです。

第五に、自由に対する恐怖。

第六に、かつで追い払ったものの帰還に対する恐怖。かつてやっとの思いで抑圧に成功したものが、再び自分の子どもの内に登場し、再びそれと戦わなければならないのですから。

そして最後、第七番目に、自分がかつて受けた苦しみに対する復讐。

いかような教育であれ、ここに述べた動機を一つも含んでいないものはありませんから、したがって教育というのは、せいぜいうまくいって生徒を立派な教育者に仕立て上げることができるばかりなのです。

教育が生徒を自由な活力ある人間たらしめる役に立つということは決してありません。

子どもを教育すればその子は教育を学ぶのです。

子どもに道徳のお説教をすればその子は道徳を説教することを学びますし、 戒めれば戒めることを学びます。

子どもをののしれば子どもはのしることを学び、嘲り笑えば嘲笑することを学びます。

子どもを傷つければ子どもは人を傷つけることを学び、子どもの魂を殺してしまえば、子どもも殺すことを学ぶのです。

そうなったとき子どもにはただ殺す対象に関して選択の余地が残されるだけです。

自分を殺すか、他人を殺すか、それとも両方か」

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