色々あってリンパ節再発。 粛々と手術して、リハビリして、順調に退院。 退院して落ち着いて、ささやかなパートにも戻って、手術の検査結果が出揃って、抗がん薬→放射線→ホルモン治療の超長距離リレーな治療スケジュールが決まりました。 そのために、新型コロナワクチンを打って、CVポート留置の手術(別の病院で)を受けて、肺炎球菌ワクチンを打って……合間にひどいテープ被れがあって……って過ごしながら、後は抗がん薬開始を待つだけだと思ってたんだけど………。 テープかぶれと戦いながらのある
本当なら、断乳の薬を飲む寸前に最後に一回でいいから授乳したかった。ちゃんとお別れの儀式がしたかった。 毎日毎日母乳をあげるのしんどかったし、面倒くさかったし、自分に色々制限もかけちゃってたから卒乳の日が待ち遠しかったんだけど、止めなきゃいけないとなると、もっとあげて居たかった気持ちで一杯だった。母乳を求める子どもとの戦いが貴重な時間で、かけがえのない時間だったと気付いたのは断乳後。今でも少し寂しい気持ちが残っている。 告知と同時にサクサクサクッと治療が始まってしまったから
告知から手術までは約1ヶ月。短かったような長かったような、不思議な日々でした。 直前まで授乳していたから、まず断乳からスタート。断乳して母乳の分泌が止まっていないと、画像診断に響いてくるのだそうで、告知の日にがんの薬と断乳の薬の飲み始めが決定。 この断乳の薬とがんの薬のセット処方がレアケースな組み合わせで、用意して貰うのが難しかったです。診察終了は夕方、クリニック門前に断乳の薬がない、からスタート。片方だけずつなら手に入る心当たりはあったけど、両方となるとありそうな薬局が
私がガンになるよりずっと前、母もガンだった。母がガンで私もガンになった。という方が正しい。 希少ガンで、5年・10年生存率も低い種類だったけど、20年生存。最期は骨とか色々に転移して…。もっと時間が欲しかった。あのガンで20年なんて奇跡的、とは言われ続けるけど、家族にとっては短かった。 そして、母のガンの最初の診断と同じ年で私もガンの診断を受けた。診断を受けた時にはやっぱりかとか、私もかとか、診断の衝撃と一緒に相まって、何とも言えない気持ちだった。母のガンの種類的に、ガン
下の子が生まれて一歳になる頃、胸にしこりを発見。絶賛授乳中だったから、飲み残しだったり、乳詰まりかなぁとも思いつつ、慌てて飛び込んだ乳腺外科。 超音波の後、プスリと針を刺されて、ギューーーっと細胞を吸いとられて、細胞診。結果はとりあえず良性腫瘍。疑いは晴れきらないけどね。と言った感じ。 そこから、経過観察してたんだけど、ある日の診察の超音波画像がそれはそれは怪しげな…素人目にも「あ、これ、ヤバイかも」って形。もう一回細胞診→針生検と進んで…。 ホルモン陽性の乳癌確定。幸
文章は専ら読む専門。 国語の成績は…文章記述以外は結構いい線行ってたはず…だと信じてる。今までの学業生活は理系寄りで、仕事もたぶん理系?なサービス業。 noteもひっそりと閲覧して、密やかに誰かのファンをして…という日々で、自分で書こうと思う日が来るとは思っていなかった。そんな中、受けたガン告知。 自分が死ぬか知れない。そう思ったら、ひっそりと生きてるのが物凄く寂しくなって堪らなくなって…。 誰かと繋がりたい!交流を持ってみたい! そんな気持ちで衝動的に登録。ネット