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昨日、仕事を辞めた。

 2015年3月、仕事を辞めた。

 大きな大きな組織に飼い慣らされてる、子犬みたいな会社だった。クライアントは、いろんな意味でとてもおそろしかった。大袈裟かもしれないけれど、わたしにとっては、まるで反撃のできない戦場だった。我がままにやりたいことしかやってこなかった自分にとって、理不尽なことや意味のないことがあまりに多すぎて、ぴったり一年しか続けられなかった。
 ひとりで入稿すらまともにできなかった自分が、入社してすぐに大きな仕事を任された。かなり無理があったと思う。けれど、わたしに教える時間のある人はいなかった。手探りでやっては、電話の向こう側で冷たいため息をつかれた。

 どこにでもある苦痛だったと思う。
ここにいればいろんなことができるようになる、たった一年で辞めるのはもったいないと、社内外のいろんな人に言われた。前半の部分はわたしもそう思う。けれど、がむしゃらに働いて神経をすり減らしてくたくたになる人生、その方がもったいないんじゃないのかと何度も疑った。
 言われた通りにやれば工夫がないと言われ、言われていないことをやれば勝手なことをやるなと言われた。それはもちろん、わたしの技量が足りなかったんだと思う。そして、今ならそう言われる理由がよくわかる。けれど、毎日毎日言うことをころころかえられて、頭が混乱した。昨日と言ってることが違いますと反論すれば、昨日のことなんて覚えてねぇよと言われた。おかしいですと主張しようもんなら、俺が怒られるからやめてくれと上司に懇願された。どんな無理を言われても、答えはYES以外なかった。

なんだ、髪切る時間あるじゃん
土日を私用に使うな
寝なければできるでしょう
やり方がきたねぇよ
そんなんだから全部ダメなんだ
常識で考えろ
事務所に謝れ

 わりと真面目に生きてきた。人にあまり怒られることのなかったこれまでの人生の中で、他人に言われたことのない言葉ばかりで、どれも焼きついて離れない。

 会社の人間は、年齢関係なくクライアントに敬語を使われていない人が多かった。打ち合わせの時間に遅れずに来てくれるクライアントはあまりいなかった。謝られることはなかったし、こちらが一分でも遅れると鬼の首をとったように意地悪く指摘された。電話の一言目は、「何?」だった。電波が届かないだけで怒られた。意味もなく蹴ったり怒鳴ったりする人もいた。入稿日の朝にすべて覆されて、ゼロからやり直した。罰みたいな、無駄をたくさんやらされている気がした。

 だいたいみんな、すいませんすいません、と笑顔でかわした。そして、打ち合わせが終わった後、または電話が切られた後で、必ず社内で愚痴大会が始まった。毎日毎日、人が人の悪口を言っているのを背中で聞いて仕事をした。

 社内の仲も悪かった。助けてくれない隣の人とは必要最低限のことしか話さなかった。セクハラ取締役は自分の利益ばかりを追い求めた。早く早くと急かされる中で、時にはわたしも人に冷たく当たらなければならなかった。レタッチャーや印刷会社によく嫌な顔をされた。わたしだってこんなこと言いたくないのに。

ここで働いてると、殺したい人リストがどんどん増えてくよ。
あのババア死ねばいいのに。
どうしても休みたいときは親を殺しなさい。
死ぬまで謝るな、非を認めたらなにをされるかわからない。

 心が小さく、汚くなっていく気がした。いろんなものが溶けてなくなっていってるんじゃないかと不安になった。自分も意地の悪い人間になってしまうんじゃないかと怖かった。
 そうして、OKの出やすい、なるべく手間のかからないものをつくろうと思うようになった自分がいた。いいものをつくろう、売れるものをつくろう、果たしてあそこにいるどれくらいの人がそんな風に思ってたんだろう。
わたしが思い描いていた、クリエイティブな現場とは対極をなしていた。

四月に入社して、五月から六月の間、一日も休まず働いた。二時に帰宅して、七時に家を出る日が、二週間くらい続いた。やることが多すぎて、不思議と眠くはならなかった。お昼休みに呼び出されて、ごはんを途中までしか食べられずに戻ることが何度もあって、コンビニ弁当をパソコンの前で食べるようになった。ご飯を食べる時間も、トイレに行く時間さえ惜しかった。

 自分が未熟だから、できないことが多いから、仕事ができるようになれば待遇も変わるはず。半ば妄信してた。

 半年が経ち、仕事のスピードもぐんとあがって、うまくかわす術や自分を守る方法を身につけて、たしかに以前よりはスムーズにこなせるようになった。しかし、だからこそ悪いところが浮き彫りになった。十五年働いてる人でも、わたしと同じように罵られ、常に時間に追われていた。何にも変わらないんだなあ、と思った。

何が楽しいんだろう
わたしって何をしてたんだっけ
これまでどんな風に生きてたんだろう

 行き帰りの電車で、いつもそんな疑問が頭をよぎった。けれど、前の会社も、やんごとない事情で一年でやめてしまった。また、やめるのか…。

 周りに諭されて、我慢してきた。自分も辞めないほうがいいと思ってた。
できることは増えた。仕事も早くなった。ひきかえに、なくなったものもたくさんあった。

 人に優しくできなくなって、口を開けば愚痴ばっかりこぼして、全然楽しく生きられなくなってた、へとへとになった自分だけが残された。こんなこと、いままでいっぺんもなかったなあ。食べ物が美味しくて幸せになった自分や、友達と話して不毛な時間を楽しむ自分や、なんもない時間にホッとする自分はもういなかった。時間がない休みがわからない予定が立てられない。それが辛くて、手帳をみなくなった。

 社長にやめる意志を伝えた。どうして現状を変えようと思わなかったのかと聞かれた。変えようと思った。変えたかった。変えて、仕事を続けたいと思った。でも、会社という組織は人間以上にそう簡単に変わらないし、ひとりの力じゃ変えられない。いや、変えられたかもしれない、けれどそれが後何年かかるかしれない。それを待っている余裕も体力も気力も、ひとつも残っていなかった。とりあえずやめたかった。電話に出たくなかった。新しい仕事を振られるのが死ぬほど嫌だった。優しい人とだけいたかった。たくさん罵倒してきた人に、わたしはお世話になりました、ありがとうございましただけを言って去っていく、そっと転校したいじめられっ子みたいだなとお思った。勝ったらボロボロになるかもしれない、しょうもない試合に負けた。

 でも、逃げたおかげで、最近やっと心の平穏が戻ってきたように思う。
辛かったら、逃げるのもいいと思った。

 お昼を外で食べられそうな、落ち着いた奇跡みたいな日に、近くのパスタ屋さんに入ったことがあった。店員さんがにっこり笑いかけて、お水を持ってきてくれた。わたしの言うことに耳を傾けて、丁寧にオーダーを繰り返した。ごく当たり前にことなのに、涙が出るくらいうれしかった。久しぶりに対等に扱われた気がして、それが優しさに感じて、泣いた。この人みたいに仕事がしたい。喜ばれる仕事がしたい。最後にお疲れ様でしたってお互いを労り合える場所がいい。

 まだまだやりたいことがたくさんある。やり直したいこともたくさんある。一番は、もっと愉快に生きたい。甘えてるとか我慢がないとかゆとり世代だとか、全部本当にそうだと思う。でもわたしはこんな生き方がどうしても合わなかった。楽しいことが世の中にはたくさんあると思う。それをもっともっと探したい。愚痴ったり悲しんだり、わたしの好きな人たちにたくさん嫌な思いをさせちゃったから、これからはうれしいことをあげたい。とまることなくまたゆっくりでも進みたいって、まだ思えてて本当によかったなと思う。いつも歩き続けてるな、って安心した。

 ゴッホの言葉で、ずっと心に残っているのがある。なんでだかわからないけど、あんまり関係ないんだけど、いまのわたしにはとても響く。
「ぼくは百年後の人々にも、生きているかの如く見える肖像画を描いてみたい。」


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YURIKO NAKAMURA
長いのに読んでくれてありがとうございます。