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パーソナルイズポリティカルとは。

不登校親の会は「パーソナルイズポリティカル」

子どもが学校に行かないことを、自分のせいかもしれないと、一瞬にしても長期的にしても、自分を責める母親は割と多いです。
そして、責められがちなのが母親が多いことも実は多い。
(父親の場合もあります)

子どもが学校に行かなくなって初めて分かったのは、思ったよりも

不登校は家庭で対処するしかない現状

が当たり前だということでした。
相談窓口、スクールカウンセラー、SSW、子どもの居場所が増えてもです。

ゴールも分からず、先も見えず、でも日々の生活をどうしたらいいのかも分からなくなる・・・
全ては家庭・・・

「学校に行けるようになって欲しい」と思って相談すればするほど、子どもは学校から遠のき、親子の信頼関係が崩れていくような経験をした方も実は多い。そうして、孤立する親も実は多い。

不登校は個人的な問題なのか?

子どもの不登校の理由はそれぞれ違うけれど、親の体験は似ているものが多いし、孤立してしまった親も実は多い。
ということは、体験談を寄せ集めたらヒントがある。
つまりそれはパーソナルイズポリティカル。

子どもが学校に行かないあれこれで、苦しい思いをしている親は自分だけじゃない。絶対的な共通項がある。

個人的な問題だと思っていたけど、

不登校は社会課題に繋がっている

不登校の親の会で出てくる話しは、
「あー、自分だけじゃなかったんだ」
みたいなことだらけ。

毎年不登校者数が増えているので、毎年更に多くの親が
「自分だけなのか?」「自分が悪いのか?」に陥る可能性があり、手探りで右往左往・・・

そのステップをもうちょっと簡略化というか(確かに悩む時間も気付きをもたらしてくれるけど)、親子にダメージができるだけ少なく済むような仕組み作りは必要だし、できるはず。

これこそパーソナルイズポリティカルなんじゃないかと。

ただ、親の話を、批判や権利の主張ととらえて思考停止や強制終了されてしてしまうことが割と多いのが残念。

答えの無い問いをみんなで一緒に考える。

「そんな暇ないよ」って人ほど必要なのかもしれません。

ドラマ御上先生の「パーソナルイズポリティカル」

「パーソナルイズポリティカル」は、日曜劇場「御上先生」の中でよく登場するワード。

ドラマの中に様々な個人的な問題を盛り込み、果たして個人的なことで終わってもいいことなのかをみんなで一緒に考える仕組みになっていて、最初は他人事のこれらが連鎖して後々自分や子孫に繋がっていくよってお話しになっているのかなと。

  • 学習指導要領と先生の働き方

  • 子どもへの虐待

  • ヤングケアラー

  • 月経前症候群

  • 貧困

  • 不登校

  • 子どもの自殺

  • 介護

  • 女性の働き方 など

学校を舞台にして「クラスのみんなで考える」というやり方が、ドラマ的にもやりやすいだろうし分かりやすいのかも。

でも、

考えるべきは大人たち

私たち大人は、毎日集まる教室もないし、みんなで考えたりディベートする機会もないし、言われたことを黙ってやることがとりあえずいいという社会の雰囲気もある。

そもそも日本人はディベートに慣れてなくて、自分の考えを言うという機会が少ないし、そもそも避けたがる傾向はあるかも、というのも御上先生の話に登場。

個人個人が耐えたり我慢して、こんなものだとやり過ごす美学・・・

バタフライエフェクト

個人個人が耐えたり我慢して、こんなものだとやり過ごすことが、時にいい場合や必要な場合もあるんだろうけど、回り回って悪循環や最悪な結果を起こす可能性があることをちょっと想像してみよう、
ということなんだと思う。

私たち保護者が不登校ことを、発信をするということは
過剰な権利の主張、被害妄想、学校批判、と捉えられがちで、そこで思考停止してしまう。

そこで必要なのは、

立場を超えて一緒に考えること

それってよく学校で言われそうなことなのに、こんなにも難しいなんて。
話したところで、諭されたり、アドバイスされたり、正論で終わる。

さらには「一緒に考える」というパフォーマンスで終わったり。
それがまたやっかいだったりもする。

学校も「なんでもおっしゃってください」「一緒に考えましょう」って言われるから思い切って話しに行ってみると、

「お母さんよく勉強されてますね」
「私は何もできないですが応援しています」

ってことを言われがちです。

あ、私、お忙しいところお邪魔しちゃったみたいですみません、みたいな。

どうやったら一緒に考えることができるんだろう、
というのを考えて、ずっと言語化しています。

思考停止させるものの正体

(以下ネタバレを含みます)

御上先生のお兄さんは、高校生の時に、発達障害のある中等部の生徒を高等部へ進学させなかったことを人権問題だと言い、署名活動をするも・・・

当時中学生の御上先生は

「兄ちゃん、もうやめなよ。署名とか」
「友達から言われたんだよ、お前の兄さん、この頃おかしいぞって」

お母さん

「あなたがそんなことをしなくても」
「あなたはあなたの人生を考えてたらいいの」

私も、不登校の情報発信してて、似たようなことを結構言われてきました。

「そんな不登校の活動してるより、子どもの未来を見てあげて」
「学校は無理にとは思わないけど、将来結婚したり誰かとおつきあいしたりするだろうし、そのためにも10代のうちの貴重な体験をすることが大事だよ」
「体験やチャレンジをさせて、失敗もさせて」
「うちも子どもが不登校だったけど、今は自立してて、私はよく分かるから言っているの」
「あなたは子どもが自立してないから分からないのよ、だから教えてあげてるの」
「そういう活動をするのは、子どものためではないんじゃない?あなたが不安を握りしめてるだけなんじゃない?」
「学校を変えようとしてない? 学校を変えようとしたり、学校に怒っててもだめだよ」
「家族や友だちもみんな、あなたがそういうのをやめた方がいいと思ってるけど言えないんだよ。だから私が言うの」
「あなたが不登校にフォーカスしてると、子どもがずっと付き合って不登校をすることになるよ」
「あなたは子どもの何を見ているの?」→「今だよ」
「今じゃないの、大事なのは子どもの未来よ」

つまり

個人的なことで終わらせるように説得する力

が働いている気がします。
しかも、「良かれと思って」というのが、言われた方の心を何かに蝕んでいくような。

御上先生のお兄さんの言葉

「そうしないと自分じゃなくなる」

良かれと思ってそう言われ、そう言われたことに従えない自分と、自分のままでいることの葛藤・・・

それって人を無気力・不安にさせる時があるし、
両者にとって、思考停止状態にさせる。

「冷淡な無視」は人のエネルギーを奪う

良かれと思って個人的な問題で片づけようとする力もエネルギーを奪われます。
もう一つ「冷淡な無視」もそのひとつ。

御上先生のお兄さんが高校生の時に学校で自殺した時の言葉。

「声を上げたぼくに対しての冷淡な無視に抗議します」
「そんな環境を生み出した社会に対して抗議します」

不登校の情報発信や学校行政への働きかけも同じで、
「冷淡な無視」
が非常に堪えます・・・

それならやめればいいでしょって言われそうですけどね。

「冷淡な無視」をしていることにも気付けない、
または「冷淡な無視」をしなければいけないほど業務が忙しいのか。

そんな環境を生み出した社会に対しても・・・
そう思うのは当然ですね。

「冷淡な無視」を続ければ続けるほど、悪循環が続き、バタフライエフェクトの負の作用がどこかで起こるような気がしてならなくて、
でも、学校や教育委員会に、「一緒に考えましょ」と提案することは、
「冷淡な無視」を直接感じてしまい、ちと辛いので、私はもうあんまりしないことにしてます。

それでもジワジワと気付きだした人が情報を拾って考えてもらえる場を作ることは必要だと思い、オンライン上にそういう場づくりをすることにしました。(LINEオープンチャット)

エネルギーを奪われるから「無気力・不安」になる

文科省調査の不登校の要因について、昨年度分の調査から、
「無気力・不安」
という括りは使われなくなりましたが、

・学校生活に対してやる気が出ない等の相談があった
・生活リズムの不調に関する相談があった
・不安、抑うつの相談があった

に置き換わった感じがします。
相談の事実にしたのは良い流れですが、現状は何も変わっていない。

エネルギーを奪われるから「無気力・不安」になるって、まぁ、当たり前のことで、周囲の理解や休むことが必要になってくるんですけど、

・学校生活に対してやる気が出ない等の相談
   ↓
 やる気が出るアドバイス

・生活リズムの不調に関する相談
   ↓
 生活リズムを整えるアドバイス

・不安、抑うつの相談
   ↓
 前向きになるアドバイス

その他、
家以外の居場所が必要というアドバイス
社会との繋がりが必要というアドバイス
人とのコミュニケーションが大切というアドバイス

これでは更にエネルギー奪われて、無気力・不安が募る場合が結構起こっているのかも。

子どものメッセージを軽視しない、無視しない

500人以上の子どもの自殺・・・
このドラマと同じように、何かのメッセージを込めてそうなってしまった子もいるのかもしれない・・・
でもドラマと同じで大人たちにははっきりと届かない虚しさ・・・

そうならないために、

子どものメッセージを軽視しない、無視しない。
もうひとつ

子どもを全信頼する

こう言葉で書くとめちゃくちゃ当たり前のことなのに、それが難しい世の中。
子どもとの関りに条件が多すぎやしませんか?

条件を外しすぎると「甘やかしている」「躾がなってない」「ゲームさせ過ぎの親だから」と聞こえてくる。

うちは「生きてるだけでオールOK」の境地にきて、究極的なとこまでいったからできたんだと思う。
今はまだそうじゃなかったら難しいのかも。
そうじゃなくても出来る時代がくることを願っています。


そのために大人に必要なこと

以前友達と話しをしていて、休日の過ごし方を自分で責めてる節が彼女にあったので、

・だらだらを極める
・自分の中のできないを責めない

みたいな話しになり、
昨日久しぶりに話して、その後今はかなり腑に落ちてるっておっしゃってて、

「これも、学校に行かない子どもが教えてくれたことだよー」
と。

昭和生まれの私たちって、

こうしなきゃダメかな
こうしたらダメって言われるかな

が、どうしても身に沁み付いているんだろうねって。

もうひとつ、
子どもと大人の関わり方って、なんか条件つけたり、諭したり、教えたりが付きまとうけど、もうそれ要らないのかもーって話。

例えば子どもが「スシロー行きたい」って言いだしたとき、「宿題やってからね」「お手伝い頑張ったらね」みたいなことって多発しそうでしょ?

でも、大人と大人の関りで、例えばあなたが「スシロー行きたい」って言った時、スシローに行くために私があなたに条件つけたりすることは無い訳で、どうして子どもにはそうなっちゃうのか・・・シンプルに、行けそうな日にちがいつか決めて行けばいいだけじゃん、みたいな話なのにね。

これも生きてるだけでオールOKに繋がる話で、どんなことでも

自分から「こうしたい」って子どもが言うってことが、どんなに喜ばしいことか。

大人はあまりにも子どもの「こうしたい」の内容をジャッジしてる。
「ゆっくりゲームしたい」と胸を張って言うのは憚られる「ダメって言われる」・・・みたいなの、子どもにもあるでしょうね。

パーソナルイズポリティカルとは

御上先生のお兄さんの署名活動でも、私たちの不登校の情報発信でも、世の中の色々なパーソナルな気付きを応用して発信していくということは、時間と労力もかかるし、お金にもならなくて、悲観的なことをやっているように見えるかもしれない。

でも、せずにはいられないのは

「アイデア」がそうさせる。
「可能性」をどうしても今止めたくないと思ってしまう。
「未知の繋がり」みたいなのに希望をもってる。

自分も含め、誰かの可能性を広げるものだと思う。
遠く知らないところで羽ばたく蝶を想像してしまう。
その面白さと可能性といったら。


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