上京後と戻った後の感想。
昨日書き殴るように書いた記事を少し手直しして先程投稿すると、上京の話をテーマにしたものを募集?話題?にしているらしい。
せっかくなのでそれについて話したい事は沢山あるので、忘れてしまう前に文字にしてしまおうと思った次第。
上京の切っ掛け。
私は当時岡山の学校で放射線医学の勉強をしていた。
しかしADHDのお陰で短期記憶が全く出来ずかなり苦労を要した。
ストレス過多になった私は発達障害の重症度が高くなったため、心療内科を変更したら、あっさりとADHDの診断が下りて、投薬治療をしながら勉強していた。
が、丸覚えの科目が全く出来ず、且つ学校そのものが無くなるため、
「落とした単位を取れないので、退学してください。」
この一言で三年間の地獄の苦労は理由もなく終わらせられたのだった。
その日の内に泣きながら履歴書を書きまくった。
二回目の大学で、卒業して国家資格を取っているはずだった計画は、
高卒で突然社会人として投げ出されることになった。
勿論一回目の大学も中退したのでその時から高卒だが。
それはまだ別の問題が起こったからなので、今回は省略する。
絶望の中で唯一考えていたのは当時ネットで繋がっていた友人だった。
彼らは東京に集まっており、会いたいと思っていた。
これから行くなら東京だと、考えていた。
行けるかどうかは考えていなかったが、只一つ言える事は最大限の努力をした。
上京した生活。
入社したのは派遣会社だった。
まぁ碌な経歴もない高卒で入れるようなところなんてそんなもんかと。
でも東京に住める事になった事はとても嬉しかった。
友人にやっと会えるという期待が大きかった。
現役で入った大学生時代にネットで繋がった東京の友達に、何度も何度も広島から夜行バスで東京まで行って会いに行っていた。
今でも覚えている、
冷えて曇る窓、真冬の高速を走る、深夜に眠れなくて少しだけカーテンから覗いた時の高速の明かりが何度も尾を引いていくのを。
東京に行って待っていたのは、[冷たさ]だった。
上京を知った友人だと思っていた人は消えた。
結局一人取り残された。
仕事は最初は多少良かったものの、隣の数か月先輩の同じ境遇の人から何度も何度も𠮟責された。
無視もされた。
機嫌が悪ければ重箱の隅をつつく様な事で怒りをぶちまけられた。
私は英語が特別堪能だった訳ではないのだが、特に苦手意識もなかったため、突然海外向けの部署にぶち込まれたのだが、基本はメール対応のため特に問題はなかったが、
その時に使われていた英文に間違いや、伝えたいことが飛ばされている事に気付いて個人的に修正して対応していたため、その先輩よりクレームは少なく済んでいたりしていたので、恐らくそれが気に喰わなかったのだろう。
パワハラが何か月か続いた時、食道に違和感?というより明確な痛みを感じるようになった。食道炎だった。
精神的状態も勿論悪いなとは思ってはいたが、実際に身体を痛めたのは初めてだった。
それからは自分でも驚く様な速さで辞めた。
それから暫く別の会社に派遣されたりしたが、何とも大企業というものは頭が固くて、しかも効率も悪いので、全く合わずに、その派遣会社自体から抜け出した。
精神状態も混乱していたから暫く何も考えずにふらふらと過ごした。
その時はまだコロナ前だったので、東大の公開講座に紛れ込んで物理学や数学や哲学を勉強して遊んだり、美術館を回りまくったり、神社を参りにいったり、大好きな高層ビルと高速道路のジャンクションの写真を撮りまくったり、目的もなく新宿を歩いたり、本屋を巡ったり、沢山の曲を漁って過ごしていた。
狭いにしても狭すぎるワンルームは6畳もなかったが、岡山の寮生時代よりもずっと快適だった。
好きな時間に風呂に入れるし、外出できるし、何よりずっとエアコンが付いている幸せ。
家族が見に来た時、「よくこんな所に住めるね。」と言われた。
でもすごく広い部屋に引っ越した今でも、あの部屋がやっぱり自分の家だと感じるくらいには気に入っている。
暫くすれば何か考える事が多くなって、悲観してくるもので。
放射線医学は卒業は出来なかったものの、かなり勉強はしていたのと、
医学の勉強は何より面白かったので、まだ医学の道を諦めきれなかったので、臨床工学技士の専門学校に相談することにした。
コロナと。
一旦取得している単位を確認したいとのことで、通っていた2つの大学から取り寄せて見せた結果、
「社会学の単位を2つ取れば編入が可能なので、放送大学で取ってきてください。」
と言われた。
そしてその日の内に申し込んで単位履修生として放送大学に入学した。
社会学の授業を申し込んで単位を取った。
その時に思った。
こんなに簡単に単位が取れるなら、これで大卒になった方が良いんじゃないか、と。
放送大学の授業は中間試験と期末試験が合格すればいいので、授業は好きな時にネットで勉強する事が出来た。
つまり出席点が無いのだ。
私の一番ネックだったのが鬱病による出席点の取れなさだった。
そこが一番苦労させられていたから、勉強そのものは好きでやっていたので、大変自分と合っていたのだ。
それから全科履修生として編入して、大学卒業に至る。
その間にたまにSEと事務の間のような仕事を数か月しては期末試験前に辞めて、直前に試験勉強を詰め込んで単位を取得して。
取り敢えずの授業料を稼ぐような生活をしていた。
そしてコロナがやって来た。
放送大学は期末試験も郵送化する事で感染対策とした。
これは好機であった。
そもそも放射線医学時代には一限から五限までフルで必須科目がずらっと並び、部屋で夜中までレポート課題をしながら、試験期間が近づくにつれて血眼になりながら勉強をしていたので、
20数科目が当たり前だったし、その難易度は言うまでもないだろう。
それが自宅で郵送で出来るというのだから、それはそれは覚えていないくらいには詰め込んだ。
しかし再履修になったのは全部で2~3ぐらいだったから、本当にタイミングが良かったと思っている。
しかし街は静まり返った。
救急車の音が常に町に鳴り響いていた。
地下鉄は呼吸困難になるほど混んでいたのに、すっからかんになった。
それは恐さもあったが、
正直、どうにもならない波のようなものだと達観している事や、
医学を理解している者からすれば、適切に恐れる事が大切であると知っているので、
意外と普通に出歩いていた。
というより、コロナになった方が人が少なくなり、出歩きやすくなった。
ただ残念だったのは東京が夜眠る街になった事、
好きな音楽LIVEが見れなくなった事だった。
でもそれは、自分だけの話ではないのだから、特に意に介していなかったように思う。
実際、東京に居た時にはコロナに罹らなかった。
当時渋谷のド真ん中に毎日出勤していたはずなのだが。
その頃相手側の親族に挨拶も済ませた相手がいたが、
その人の人生を救ったら、
自尊心が高まり過ぎたようで、
私を無下にするようになって、
…まぁそんな事があったような気がする。
でもお陰で忘れかかっていた事を思い出せた、
この人生は何処までも孤独だと。
幾ら叫んだって意味はなくて、
自分を救うのは自分しかいなくて、
それが救う事になるのかは分からなくても、
兎に角とか否が応でもとか自分に言い聞かせながら、
ここまで来たのだと。
帰ってきた広島。
大学を卒業した後、SEとして海外の会社でリモートで就労ビザが下りるまで働いたり、
幾つかのそれなりの規模のSE経験を積んだ。
コロナが落ち着き始めて、人が増え始めた時、
自分に無限に広がる孤独が襲って来た。
将来は絶望しか見えなかった。
普通に生きる事が、
否、一人で生きる事すら出来ないのに、
隣に誰かがいても、
いつまでも孤独が消えない。
どうやっても。
どうしても。
空虚で孤独で。
それが人が増える毎に増して増して。
鬱病の苦しみが、不眠も食欲不振も当たり前になってきた時、
二親等が全員介護施設に入った。
実家に帰った母は憔悴していた。
「どうせ今は一人で生きれないのだ、一旦帰ろう。」
引っ越して間もなく祖父は亡くなり、
その冬、祖母が亡くなった。
あれから一年が経とうとしている。
瀬戸内海は穏やかだ。
山は青々として、蝉が暑さと関係なくわななく。
平安そのものだ。
だから東京よりずっと孤独を感じる。
まだ賑やかしや、何かの催しや、好きな風景や、永久に変わり続ける景色が自分の心を満たしていたのだと、今になって思う。
ここより孤独が特別じゃないから、かもしれない。
いつかは、東京に帰るだろう。
自分の家が東京にある。
今も帰りたいと思う。
でも良かった事もある。
ずっと出来なかったギターが弾ける環境が出来た事。
大声で歌っても怒られない事。
やっぱりそれは不可欠なんだな。
そう思います。