【小説】アライグマくんのため息 第10話 旅立ち
その日は嫌なほど、空が真っ青に澄み渡っていた。リカは今日イギリスへ行く日だというのに、前日深夜過ぎまで友達と電話でおしゃべりをしていた。そのため、朝からぐったりとしていた。いくら午後の便だとは言え、アホだなぁと思う。
「まったくもう。だから早く寝なさいって言ってたのに。早く支度しなさい。」
リカの出発を見送ろうと、出発の2日前から東京のマンションに来ていたママりん。
「そんなこと言ったって、なかなか話が終わらなかったんだもん。しょうがないじゃない。いいわよ。飛行機の中で、ゆっくり寝ていけばいいんだから。」
リカは眠そうな顔をしていても、しっかりと言うことは言う。ママりんとリカの声で、ようやく「ちび」が起きてきた。
「おはよう。ふわぁー。」
りんご1個入りそうなぐらい、大きな口である。年頃の娘に、将来のおばさんを垣間見た瞬間だった。
「もう、あんたたち、いい加減に支度しなさい。ごはん、できてるわよ。」
ママりんの言葉で、ようやっと2人は、重い腰を動かし始めた。ごはんを食べながら、「ちび」が、
「ねえ。そういえば、小口君、一緒に空港まで行ってくれるの?」
と聞くと、リカはほんの少しさみしそうな顔をして、言った。
「ううん、行かないって。一応、飛行機の名前と時間は教えておいたけど、たぶん、来ないだろうな。」
いよいよ家を出る時刻になった。リカは、すっかり片付いた自分の部屋、台所、お風呂場、洗面所を、1つ1つゆっくりと眺め、何かを思い出しているようだった。オレは、リカに向かって言った。
「オレ、ここでの生活、結構気に入ってたぜ。」
オレの言葉はもちろんリカには聞こえないだろうが、リカは、
「楽しかったな。ここでの生活。もう、二度と戻れないけど。」
と、つぶやいた。リカの部屋でニコニコしながらテレビを見ている「おバカなハスキー犬のぬいぐるみ」に向かって、
「またね、ハスキー君。いい子にしているんだよ…。なんて、ぬいぐるみだもんね。」
と、奴の頭を撫でながら、ぽつりと言った。そんなリカの様子をちょっと涙ぐんで見ていたママりんが、
「馬鹿なことやってないで、ほら!もう時間よ。」
と言うと、
「そうね、さてと、アライグマくん、行くよ。」
と、リカはそう言うと、オレを銀色のきれいな袋に入れて、さらに大きな赤い鞄に押し込んだ。
こうしてリカは、約4年間続いた、門前仲町のマンションでの生活に別れを告げた。
成田空港までの移動中、ずっと「ちび」は、自分のアメリカでの留学体験の自慢話を披露していた。
「ちび」の相手をしていたのは、もっぱらママりんで、リカは窓の外の景色を眺めて黙っていた。時折「ちび」が、
「リカちゃん、大事な話をしてあげているんだから、ちゃんと聞きなさいよね。」
そう言うと、リカは面倒くさそうに、
「うん。聞いてるよ。」
と、答えるのであった。
こうしてとうとう、成田空港に着いた。外の景色を眺めようと、オレは必死になって、わずかなカバンの隙間から外を覗こうとしていた。空港内はがらんと広く、あちらこちらで英語や日本語など、さまざまな言語が話す人、ガラガラと旅行ケースを引きずる人、あたふたと駆けていく人、いろんな髪の毛の色を持つ人など、いろんな人がいた。こうした景色を見ているうちに、なんだか、急に緊張してしまった。
考えてみれば、国際線に乗るのは、この日本に連れてこられて以来のことだ。あれからもう5年。ずいぶん時間がたったものだなぁと、しみじみ思った。
リカは相変わらず、元気なさそうに時々ため息をついていた。そして、誰かがリカのそばを通るたび、ビクッとして、後ろを振り返っていた。「ちび」は、
「いいなぁ、リカちゃん。あー、あたしもまた行きたくなっちゃう。思い出しちゃうよなー。ここに来ると♪あの時のこと。わくわくだったよなぁ~。」
とか言いながら、妙にはしゃいでいる。ママりんは、落ち着かない様子で、
「リカちゃん、忘れものない?大丈夫?ね、忘れ物ないわね?」
と、3分おきくらいに、何度も何度も同じことを聞くのであった。
「今更忘れ物したら、そりゃあ、まぁ、どうにもならないだろうな。オ、ヒョ、ヒョ。」
とつい、言ってしまうオレだった。
旅行会社のお兄さんに、クーポンからチケットに変えてもらい、早めに搭乗手続きを済ませ、飛行機乗ろうとリカがカウンターに向かって歩きかけたその時、遠くからこっちに向かって手を振りながら、男の人が近づいてきた。いつもは目が悪くて気づかないリカも、この時はすぐにその男が誰なのか分かったらしい。自分から進んで、その男のところへと駆け寄っていった。
「小口君、来てくれたんだ。」
ほんのちょっと涙ぐみ、嬉しそうにリカは言った。オレは思わずここで、
「なんだ、そういうことだったのかー。けっ、まいっちゃったなぁ。」
と、余計な一言を言ってしまった。おかげで小口の野郎にごつんと一発お見舞いされてしまった。小口はどうやら急いでここまで走ってきたらしく、息をハアハア言わせながら、
「ごめん、渡そうと思ってたもの、忘れちゃったから、遅れちゃったよ。」
と言って、小さな箱を渡した。中には小口の野郎が作曲した、テープが入っていた。
「これ作るのにちょっと時間がかかっちゃって。でも、間に合ってよかった。はぁ、はぁ、はぁ。」
ちょっと照れ臭そうに言った。リカは、
「どうもありがとう。後でじっくり聞くね。・・・あ、あたしもね、実は、渡すものがあるの。もし、今日来なかったら、辞めようかと思ってたんだけど…。実は、これなんだ。」
と言って、赤い鞄からなんと!銀の袋、つまりオレを差し出したのだ。
「えっ?これって…。」
小口の野郎はたじろいだ。27歳にもなって、まさか「ぬいぐるみ」をもらうだなどとは思いもよらなかったのだろう。明らかに、迷惑そうな思いが顔に現れていた。
(悪かったな、小口!)
小口の野郎に散々いじめられてきたオレとしては、リカのこの突拍子もない行動に、納得するわけにはいかなかった。こんな小口なんかに飼われた日には、もう、自分の命がいくつあっても足りない。きっと、小口は毎日密かな楽しみとして、オレをいじめるに違いないのだ。そりゃぁ、確かに小口だって、いいところはある。だがしかし、、、だ。
とにかくこのリカの無謀な願いを止めようと、オレは必死になって、
「ちょっ、ちょっと待て!や、やめろよ。やだよ、オレ。な、なんでオレがこいつん家に行かなきゃなんねぇんだよ!馬鹿野郎。」
と言って、バタバタと抵抗したが、リカはそんなオレの想いに全く気付いていないようで、
「そう、アライグマくん。あたしの代わりに、しばらく預かっていて。そして、あたしが戻ってくるとき、またここで、これを返してね。」
と、ニコニコして言うのだった。オレは、
「バカ野郎!お前がよくても、オレは嫌なんだよー。小口だって、迷惑なんだよ!おい、小口、小口!何とかいえよう。お前だって、嫌だろう?」
と、小口に助けを求めたが、運の悪いことに、そこへおしゃべり「ちび」がやってきた。
「あら、まあ、どうも、こんにちは。お久しぶりです。ママ!ママ!リカちゃんの例のボーイフレンドの小口さんだよ!」
小口の野郎は慌てて、
「あ、あの、どうも。いつもお世話になっています、お姉さん。あ、いや、そんな、お気遣いなく、僕、すぐに帰りますから。あの…。」
と、慌てて言ったが間に合わず、ママりんがやってきてしまった。
「まぁまぁどうも。いつも娘がお世話になっております。初めまして。母の武討でございます。」
このママりんと「ちび」の出現で、すっかり小口の野郎はリカにオレを返すきっかけを失ってしまったようだった。そして、ママりんと「ちび」の愛想のよすぎる話し方に、タジタジになっていた。
この間、オレが決死の覚悟でリカに訴えたのは言うまでもない。が、結果はすべて無駄に終わり、時間が刻々と進んでいくのであった。
いよいよ登場手続き終了時間に近づいてきた。「ちび」は、
「がんばってね、リカちゃん。遊びに行くからね。」
と、ポンっとリカの肩をたたき、ママりんは、
「リカちゃん、身体に気を付けるのよ。いやだったら、いつでも帰ってきていいんだからね。パパもそう言ってたから。ぐすん。」
と、涙ぐみながら言うのであった。リカは、二人に笑顔で答えると、小口の野郎を向いて、
「大切に扱ってね、それ!」
と言って、銀色の袋をポン!と叩いた。小口は、言った。
「うん、大切に、かわいがるよ。」
この小口の、「かわいがるよ」の言葉が、オレの頭を駆け巡った…。
(・・・・・・・・・・・)
中に入る前、リカは、くるりと振り向いて、大きく手を振った。そして、一瞬じっと小口のほうを見たかと思うと、またくるっと背中を向け、スタスタと中に向かっていった。その時、
「ふぅ。」
と、誰かが「ため息」をついた。誰だろう?と周りを振り返ったが、誰も「ため息」をついた奴がいなようだ。そう、オレは気づいた。「ため息」をついたのは、ほかでもない、オレ自身だったのだ。
オレは今までネガティブなことを考えて、疲れたとか、ため息なんてつく奴をずっと軽蔑してきた。だから、オレはそんなこと、一度もしたことがなかったのだ。
オレはどうして、ため息をついてしまったのかよくわからなかった。けれど、なぜだか急に、これまでのリカとの思い出が走馬灯のように思い出し、胸がちょっときゅうっと、締め付けられるような感じがした。
(どこかほつれちゃったのかな…?)
オレは慌てて、胸のあたりを確認した。どこもほつれていない。。。
それにしても、どうしてリカは自分を連れて行かないのか。小口の野郎に託すって言っているが、リカは、あいつは、夜な夜なオレを抱きしめないと、夜眠れないはずなのに。なんでだ?なんでだろう…?
ぽたん。。。
オレの足元に、水がこぼれてきた。いや、正確には、ぬいぐるみにしか見えない、水のようなものだった。
完全にリカの姿が消えてしまった入り口を見て、オレは、もう一回、ため息をついた。
おわり
(読者の方へ)
お読みいただき、ありがとうございました。また機会があれば、続編を書いてみたいなと思っています。
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