【小説】アライグマくんのため息 第8話嵐の夜③
留学の準備は、着々と進んでいったが、リカには、この留学計画を進めるにあたって、もう一つ乗り越えなければならない大きな壁があった。
そう、会社を辞めてからのアルバイト先も決め、もう一刻も早く会社に辞表を提出しなければならないはずなのに、リカはなかなかそれをしようとはしなかった。毎日会社から帰ってきては机に向かい、辞表を書こうとしていた。が、どうにもこうにも筆が進まないようで、便箋の一行目に「退職願い」と書いては、その後何も書かず、くしゃくしゃに便箋を丸め、部屋の隅のごみ箱に向かって投げ入れるのであった(正確には、きちんと入らないことが多かったので、リカの部屋は丸まった便箋で散らかっていた)。
そして、便箋をひとしきり投げた後、「ふぅ」っとため息をつき、遠い目をして、ちょっぴり涙ぐむのであった。オレは、リカがどうしてそんな風になるのか、まったくわからなかった。「ちび」やママりんやパパりんには、あんなに正々堂々とはっきりと留学の決意を告げられたのに、どうしてあんなに嫌がっていた会社を辞めるのをためらっているのか、と。
そうこうしているうちに、とうとう辞表を提出期限まで、あと一週間となってしまった。その晩、いつものように小口の野郎から電話がかかってきた。オレは、こっそり耳をそばだてた。ぬいぐるみの耳を侮るなかれ。犬の何千倍もの聴力なのだ。電話の相手の声もしっかり聞けるのだ。
「どうも。こんばんは。」
いつもながらの小口のあいさつ。リカはその声を聞いたとたん、まるで魔法にも出かかたように、急に黙りこくってしまった。
「ん?…何かあった?…どうしたの、今日はおとなしいね。」
リカの沈黙に驚いたようで、小口の野郎はゆっくりと優しく聞いた。
「う…ん。無理に言わなくてもいいけど…。俺でよければ聞くよ。」
ダムに貯まっていた水が、一気に流れ出したかのように、リカの二つの目から涙がワーッとあふれ出した。声を震わせ、リカは言った。
「ご、め、ん。」
オレは、リカがどうして今まで辞表を書けずにいたのか、この時ようやくわかったような気がした。リカの態度とは対照的に、小口の野郎は、やけに落ち着いた声で静かに言った。
「会社、辞めるんだってね。今日、おしゃべりの人事の斎藤が、昼休み、みんなに言いふらしていたよ。・・・・前から確かに、辞めたいって言っていたから、別にそんなにびっくりすることでもないかもしれないけど、ね。・・・別に、オレがどうこう言うこっちゃないかもしれないけど。・・・でも、辞めて、どうするの・・・?」
そう、後から聞いた話だが、リカは、今日ようやく、例の「女はクリスマスまで」の高木課長に口頭で伝えたのだった。どうやら例のごとく、高木課長が「女性社員は信用できないので、仕事が触れない」というつぶやきを耳にし、腹が立った勢いで、辞めることを伝えてしまったらしい…。それがあっという間に人事に伝わり…。普段は、のらりくらりしている課長、相当この話にはノリノリだったようだ…。
ティッシュペーパーで、「ちーん」と思いっきり鼻をかみ、少し落ち着きを取り戻したリカ。すぅっと息を大きく吸うと、静かに言った。
「留学・・・留学しようと思うの…。前から、前からね、考えていたことだったんだけど…。なんか、なかなか小口くんに言い出せなくって…。反対するかな、どうしたらいいのかな…って。ごめん・・・。」
「あ、当たり前だろ!何考えてんだよ!なんだよ・・・なんで、留学、なんだよ!」
あの、普段はぼそぼそとか細い声でしか話さない、小口の野郎。この時ばかりは、大きな声を出した。
(おぉ?)
二人はしばらく口論し、結局、2日後の週末に会って、じっくり話し合うことになった。
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