![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/31992880/rectangle_large_type_2_dc713b2a2a9f1983338cd05cd9ae98d9.jpg?width=1200)
僕が写真をやる理由〜anagonの日記 8/3〜
kはじめに
今日は久々に外に出かけました。
そして久々にカメラのお仕事。
久々に触ったカメラがなんか愛おしかったです。
①今日あったこと
・ゆうきさんのプロフィール写真撮った
・ゆうきさんとご飯食べた
・くれはと和智に電話した
外に出かけたのが、2週間ぶりで、なんかとっても疲れました。いい意味でね。
②今日思ったこと
1.写真をぼくがやる理由の話
先に言っておくと、音楽や写真や動画をはじめとしてすべての表現は、
ぼくの頭の中のクリエイティブの表出の方法に過ぎないという意味では一緒です。
ぼくが見たもの、ぼくが思ったもの、ぼくが作りたいものを、
一体どの表現ですれば、最適なのだろうかという問いを立てたときに、
特に
見たもの、切り取りたい瞬間などは、写真や動画となり、
視覚的にではない方法で届けたいもの、かつ直接的にではなくて、遠回りして伝えたいものは音楽となることが多いです。
写真を撮り始めたのは、大学一年生の時で、
音楽とは違って、
一瞬を切り取り、見た人にすぐにダイレクトにその空気感を届けることができる、
一方で、そこに含む感情は非常に曖昧に伝わり、観る側に解釈が音楽よりもはるかに委ねられるという
表現に強く興味を惹かれました。
かれこれ3年ほどカメラを持って、いろんな国に行きいろんな瞬間を切り取ってきたけれど、
写真をやる意味なんていうのは単純で、
写真という表現で残したいものがあるから。
何か残したいという思いに端を発して、そこにベストな表現を考えたときに、
この時は音楽、この時は写真、この時は動画、という表現をとるだけに過ぎないのだと思いました。
つまるところ、表現というのは、あくまで自分が残したいと思う時や空間や感情を残すための手段でしかないような気がします。
そこに取り憑かれたのが、人間なんだなと思います。