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田中千智 【傷痕】

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 ずっと彼女の作品が欲しかった。狙いを定めてから何回か個展に足を運んだものの、売り切れていたり開催地が遠かったり思ったよりも作品が小さかったり中々手に入れる機会がなかった。しかしようやくチャンスが巡ってきた。百貨店での個展だ。私はすぐ職場に急病のため通院の連絡を入れると初日の朝一に百貨店に向かったのだ。


 新宿伊勢丹、オープン前にたどり着くとすでに人々が開店を待っていた。初売りのニュースで見たことがあるけど、毎日待っている人がいるのだ。そして開店時間になると店員さんが深々と頭を下げて我々を迎え入れる。まさか行き先が私と同じ人はおるまい。エスカレーターを乗り継いで画廊までやってくるとやはり私以外誰もいなかった。そこで作品を見る。それにしてもデパートの画廊はライティングがおかしい。蛍光灯だ。絵が平板に見えるし青みがかっている。だがそんなへぼ光線に負けないしまりのあるこの黒さはどうだろう。引き込まれる。私が訪れた展覧会ではほとんどの作品は当年か前年に描かれていたのに、この作品だけが前々年に描かれていた。当年だけでも複数回の展示があったのに前々年に描かれてずっと売れなかったとは考えにくい。なぜだ。私以外の人間はギャラリーに来ても美意識が死んでいてこの作品だけを見逃し続けていたのか?この謎は後に作家と対面した時に明かされることになる。作家が気に入ってしばらく自分のアトリエに飾っていたからだった。一年飾って展覧会では初お目見えだったのだ。またタイトルが「傷痕」で、絵との関連性がわかりづらいのは本作が小説「傷痕」の表紙になっているからなのだった。作家と話すとわかることがたくさんある。これは現代美術の購入者の大きな特権だ。作品でわからないことがあったら本人に聞けばいいのだ。作家本人が自分の作品を勘違いしていることもあるので絶対ではないけれど、作家の話を聞くのは大きな助けになることは確かだ。ともあれようやく私は念願の作品を手に入れることができた。


 この作品は後になって横浜の美術館に貸し出されたりもした。自分の所有作品を大きな箱で見られる愉悦はない。意気顕揚として招待客として向かっていったが財布を忘れた。SUICA だけ持って家を出てしまった。私は数十万円の絵を眺めながら百円玉一枚すら持っておらず、知り合いは一人もおらず、SUICA のチャージ分では帰りの電車賃ギリギリしかなく、昼時だったのに何も食べずに空きっ腹だけ抱えて自宅に帰ったのだ。携帯電話を振ったら小銭が出る機能があれば良かったのに。途中から作品と関係ないことばかり書いている。

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