人生は登山?
コロナが凄いことになっても自分のとこはまだ仕事が休みにならず…
土日休みが多いので、土日に色々と考えたり今まで考えていた事をまとめたりしよう。(見ている方がいるのかは謎ですが)これを見ている皆さんは体調などは大丈夫ですかね…
形のない不安は体力とメンタル両方をゴリゴリ削るんで
もう、最悪有給ある人はとっちゃっても良いでしょ!
コロナにかからないようにするのと同じくらい不安を回復させるのも大事。
と、この話題に関して話していたら時間がいくらあっても終わらないので、この辺で。
今日は相対的貧困について。
こどもの貧困とか
貧困の連鎖とか
言われるようになって結構経つ気がしますが
今回は自分がこの辺の言葉を聞いたときに考えていたこと、イメージについて思い出していきます。
○相対的貧困とは
これを読もうと思った人で一切知らない!ってとこはない気もするけれど…
以下日本財団さんのホームページより
相対的貧困とは、その国の等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得)の中央値の半分に満たない世帯のこと
とのこと。
めちゃめちゃざっくり言うと
絶対的貧困→生きることがキツい赤信号
相対的貧困→生きてはいられる黄信号
てな感じで
きっとこの「生きてはいられる」ってのか相対的貧困のミソで
どんなスタイルにしろ、生きては行けるんすよ。生きては…
相対的貧困は見えにくいし、わかりにくいから
そのイメージの差がきっと埋まりにくいんだよなぁ…
そして言ってしまえば「生きる」ってなんなのさ?ってこともあって
心臓が動いてればOK?ではないことはわかってもらえるとは思うんですけど
自分が生きたい、明日を迎えたいと思えるために必要なことは人それぞれで
そこには優劣や善悪をつけるものではないはずだけど、結局周囲の人の「こうあるべき」が押し付けられがちになるんですよね。
貧困問題の話になったときに出てくる「常識的には」とか「社会通念上」の文言とかって、きっと顔の見えないだれかの「こうあるべき」なんすよね、きっと。
立場の弱い人たちは言い返す余裕すらなくて黙るしかなくて、さらにエスカレートしていく
っていうループが起きやすくなる。
これが貧困問題のときに起こる「自己責任論」の形なのではないかと。
○人生登山説
んで、今回のメインの
「人生登山説」
なんて大げさな書き方をしたけれど
こどもの貧困のことを考えていたときに
「こんなん命綱なしでロッククライミングしてんのと一緒やんけ」と思い浮かんだとこからイメージを膨らませてなんとなくまとめただけなので、めちゃめちゃ軽い気持ちで読んで下さいm(_ _)m
登山をするときってだいたい
まず、準備をして必要なものを揃える
そしてどこから登っていくか、どこで休むか計画を立てる
居るなら一緒に行くメンバーを決める
などなどやるじゃないっすか
中には
ある程度のところまでは運んでくれるロープウェイ、ケーブルカーに乗る人もいれば
無料で貸してくれる道具やガイドさんに協力してもらう人もいて
自力で完全装備を揃えて、よし!登るぞ!って人もいる
軽い気持ちで今の服装でとりあえず行けるとこまで登ってみっか!って人もいるかもしれない
これ、ほんとに社会そのものでは?と
ある程度のところまではサポートしてくれるロープウェイ、無料でレンタルできるもの→公的扶助、社会保障
登山道具、装備→経済的、文化的基盤
一緒に登る仲間→社会的資本
と当てはめてみると
知ってる人は、ある程度のところから登山を始められて助けてくれる人もいる。道具も最低限揃っている。
自分で道具を揃えられる人は大体のことに対応できて、自分で対応できる。
装備は最低限でも、誰かと一緒に登れば道具を融通し合ったり、声をかけあって登れるかもしれない。
ただ、そこに
登山について何も知らないのに
「今からあなたは山を登らなければいけません。足があれば歩けますね、ではどうぞ。」
と麓にほっぽり出された人がいたとしたらどうですかね。
その人なりに考えて
「気分転換にラジオは必要かも」
「まずは食料だ!」
「歩くなら靴にお金かければいいんじゃね?」
と「登山に」必要なものというよりは「自分にとって」必要なものを用意し始めます。そのとき周りに必要なものを教えてくれる人はいません。
そうして(人によっては)チグハグな装備のまま登山を始めるひともいて。
歩き始めたのはいいもののどこに進んでいいかわからずとりあえず歩き出す。
幸い人が通った形跡の道はあるからそこを選んで進んで行く。
後ろから完全装備の人が(この人なんでこんな服装で来てるんだろと思いながら)抜かしていく。
人によっては「こんな装備で登山に来るなんてなんてやつだ!」と腹を立てて、直接その人に怒りを向ける人もいる。
パッと見は普通の登山装備を揃えられたけど、リュックには食料も何も入ってない人が居たとしたら
すれ違った人はわからないから声をかけず、通り過ぎることだってある。
夏山を軽装で登ろうとしたときに「(私が登った冬山は)そんな軽装では駄目だ!しっかり着込んで行きなさい!」と季節やタイミングに合わないアドバイスを受けてしまった人が居たら
どの場合も、誰が悪いとかじゃなくて
「知らない」ことと「知ろうとしない」ことがいろいろな大変さを生んじゃうんですよね。
登山について知らない人は自分のイメージで準備するしかないし
自分の周りに詳しい人が居なかったら偏ったイメージで準備を進めてしまうかもしれないし
周りの人からしたら「登山といえば大変なのになんで!」とどういう流れで準備を始めたのか、どういう考えだったのかを聞かず、準備の結果だけでその人を責めやすいし
責められた人はどうなるか?
責められないように人に会わないように進んだり、どうしていいかわからなくなって進めなくなるんじゃないっすか?
そして、遭難したらなんて言われるかって?
「そんな装備をしてたら遭難して当然」
「そんなやつは登山させるな」
「自分のときはうんたらかんたら…」
こういう心無い批判が出てくるんじゃないですかね
○おわりに
と例え話を膨らませて過ぎてすみません…。
自分が若者と関わっていたときにはこんなことを考えていました。
教えてくれるひともいない状況で、必死に自分で考えて歩こうとしている若者がいて
話をしたときに「そういう考えはなかった」「知らなかった」「そんなこと言ってくれるひと居なかったから」とか
興味のない人が読んでいるとは思いにくいほど、わかりにくい文章なのですが💦
もし、もしこどもの貧困や今の若者について考えたことなかったなって方がいたら
少しだけ、ほんとに少しだけ
気になった人、こども、若者に
「どした?なんか困ってるんじゃないか?」
って眼差しや気持ちを持ってくれたらほんとに嬉しいっす。
それだけで登山の難易度が一気に変わる人が絶対にいます。ほんとに変わるんです。
と、暑苦しく読みにくい文章になってしまいました。
読んで頂いた方、お付き合い頂いてありがとうございます。
こんな感じで読みにくく、暑苦しい文章ですみません。
もし「こうしたらもっと読みやすいよ!」
というアドバイスがあったら教えて下さい。
さ、つぎは何をまとめようかなぁ…