彷徨えるひとの道しるべ。
方向音痴への道【総括】
(その1)目的地さえなければ方向音痴にはならない。目的地がぜんぶ悪い。
『どこでもない場所』/浅生鴨
大学を卒業して3年。地域に関わる様々な仕事をしながらずっと「着地点を見つけなきゃ」と思っていたのだけれど、『どこでもない場所』を読んでいると「着地するのはもう少し先にしよう」と思えてきた。
天でも地でもない、右でも左でもない、そんなところを “ふわふわ” でもなく、かといって “どんより” でもなく漂うような鴨さんの文章が心地よくて、夜眠る前にベッドの上で読んでいた。
ページをめくりはじめると、斜めうえあたりから構えられたカメラの映像として、映画のように脳内で再生されていく。
わたしだったらきっと 最後のうどんを断れなかったかもしれない「おばあさんのバイキング」、読みながら何度も吹き出した「交渉」。そのほかにもnoteで読める章があるので、まだ読まれていない方はぜひ『どこでもない場所』のマガジンへどうぞ。
“目の前にあるものすべてが急にどんどん自分から遠ざかり、自分がその場にいる感覚がなくなることがある。何もかもがスクリーンに映し出された映像のように現実感が消え、人も車も空を飛ぶ鳥でさえも演技しているようにしか思えず、下手な色を塗った塗り絵に見えてくる。”
「どこでもない場所」の章を読んだあと、いつもの場所を運転していると急に、目に映る景色がスクリーンに映し出された映像のように見えてきた。
こ、これはもしや「浅生鴨さん現象では?!」とよろこんだのもつかの間、熱が出てきた。ほんとうにただの微熱だったので、寝ることしかできず、鴨さんの見ている世界を垣間見ることのないままに そのあとの時間をぼんやり過ごした。
「いつかどうにか着地点を見つけなきゃ」という思考の最中に “迷子でいいのだ” という文章を読んでしまったものだから、脳みそが反応して知恵熱が出たのかもしれない。
追い討ちをかけるように回復してすぐ飛行機に乗ったので、ふわふわと漂った気分のまま何日かを過ごすことになった。
現在はばっちり元の生活に戻っているのだけれど、もしかしたらこれは、あの日の続きではないのかもしれない。熱が出てから数日のあいだ、だれかの記憶のなかを生きていたのだとしたら・・いまのわたしは一体だれなのだろうか。
もし、だれかの記憶の延長を生きているのだとしたら、それはそれでおもしろいのかもしれない。そんな風に考えるとなんだか、肩のチカラが抜けてきた。
いまの仕事も好きだけど、着地点はまだ決めずにいこう。