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旅の準備をはじめる頃。
普段の生活のなかでふと、『どこでもない場所』へ行きたくなる時がわたしにはある。
その理由を、わたしもずっと探してみてはいたのだけれど、ほぼ日で新しくはじまった連載『ネパールでぼくらは。』の#1につづられている、鴨さんのこのことばに尽きるような気がする。
“けれども旅に出れば必ず、僕は僕でなくなる瞬間に出会う。
自分自身がまとっている、生きるための癖のような何かがまるで通用しなくなり、むき出しの自分に出会う。自分が過ごしてきた時間とその土地に流れてきた時間が交換されて、新しい時間が自分の中を流れ始める。いつもそんな気になる。”
どこでだれとどのように暮らしていたとしても、しばらく同じ場所や会社、コミュニティに存在していと、じぶんを覆うなにかが、あるいは、じぶんの中にあるなにかが、知らずしらずのうちに硬直してしまう。
それを解きほぐしていくのが、「旅」の目的ではないだろうか。いや、目的にしなくても「旅」というものが、勝手に解きほぐしてくれるのかもしれない。
だからわたしは、再び旅に出るのだと思う。
旅先から戻ると、『ここではないどこか』で解きほぐされた「わたし」を 丁寧に拾い集めていく。ここでつなぎ合わせられた「わたし」にはすでに、旅先で染み込ませてきたエッセンスが混じっている。あくまで同じわたしなのだけど、そこにもう同じわたしはいない。
矛盾するようだけど、旅に出てたとて なにかが劇的に変わるようなことはないとも思っている。世界中どこを探しても「わたし」なんてどこにもいないし、わたしはどこまで行っても「わたし」でしかないことを思い知らされるだけだ。
それでも旅に出たくなるのは、「旅」というものに、そして「旅」を終えたわたしに期待してしまうじぶんがいるから。いや、「わたしに」というよりも、旅を終えたわたしが そこから過ごしていくであろう未来の時間に、という方が正しいかな。
なにかを得よう得ようとする旅は あんまりうまくいかないけれど、むき出しのわたしのままで『どこでもない』まちを歩けば、帰ってくる頃には ほしかった「ヒント」のようなものが、すっと手のひらのなかに舞い降りている。
だからかな、航空券と宿泊先さえ決まれば その旅は成功したも同然だと思っていて。あとはもう、流れに身をまかせるだけで どこまでも楽しいことを知っているから。
今年の夏は、マドリッドを訪れることになった。2週間前までは、秋頃にイタリアに行こうと思っていたのだけれど、縁というのは不思議なもので。
時間に余裕があれば、アムステルダムも訪ねてみたいな。
それまでに『どこでもない場所』を再度読んでおこう。もっと旅先で漂うための、いい指標になるはずだから。
『ネパールでぼくらは。』の続きも、とてもたのしみです。
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